内容
諸葛亮の祖先に諸葛豊(しょかつほう)という人がいた。彼は、前漢の元帝の頃、司隷校尉(しれいこうい)をつとめていた。
父の諸葛珪(しょかつけい)は、泰山(たいざん)の郡丞(ぐんじょう)をつとめていた。
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兄の諸葛瑾は、洛陽(らくよう)の大学へ進学していた。
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生母は、諸葛瑾が大学へ進学しているあいだにこの世を去り、父の諸葛珪は章氏(しょうし)を妻に迎えた。
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諸葛亮が十四歳の頃、父の諸葛珪は亡くなった。
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兄の諸葛瑾は、洛陽(らくよう)で大乱が起こり、帰って来た。
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諸葛亮らは、兄の諸葛瑾の勧めにより、江東(こうとう)にいる叔父の諸葛玄(しょかつげん)を頼った。初平(しょへい)四年、董卓(とうたく)が長安(ちょうあん)で命を奪われた翌年であった。
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半年後、叔父の諸葛玄は、劉表(りゅうひょう)の縁故があるため、荊州(けいしゅう)へ行くことになった。諸葛亮と弟の諸葛均(しょかつきん)は荊州へ、兄の諸葛瑾は継母の章氏を伴って呉の地方へ行った。その後、兄の諸葛瑾は呉主孫権(そんけん)に仕えることになる。
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荊州に移った叔父の諸葛玄は一年後、劉表に予章(よしょう)の太守を命じられた。
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一方で、漢朝の辞令を受けた朱皓(しゅこう)という者が予章の太守として赴任しにきたが、諸葛玄が先にいるため、城内へ入ることができなかった。
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諸葛玄と朱皓は戦争となり、諸葛玄は敗れたため、城から追い出された。
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城外遠くに留まり、再起を図っていた諸葛玄であるが、ある夜、現地民の反乱に襲われ、諸葛玄は斬られた。
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諸葛亮と弟の諸葛均は逃げた。
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荊州にいた大儒者石韜(せきとう)の門を諸葛亮はたたいた。そして住み込みで雑用を務めながら、学問を学ぶこととなった。そこには徐庶(じょしょ)もいた。諸葛亮十七歳の頃であった。
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二十歳になった頃、諸葛亮は石韜の学校を去った。学問のために学問をする者や議論のために議論をする者から逃げたのである。
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襄陽の西郊にある隆中(りゅうちゅう)にかくれた諸葛亮は、弟の諸葛均と共に晴耕雨読の生活に入った。
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諸葛亮は河南(かなん)の名士黄承彦(こうしょうげん)の娘と結婚した。
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月日は流れ、建安(けんあん)十二年、諸葛亮二十七歳のとき、劉備は諸葛亮を訪ねるのであった。
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