あらすじ
一
襄陽の城中で、劉琦が亡くなり、関羽が代わって荊州の守りについた。
二十日ばかり経った頃、孫権の名代で、琦君の喪をとむらうためという理由で、魯粛が来た。
魯粛は劉備・諸葛亮と会談した。
魯粛は「劉琦が亡くなったのだから、荊州を呉へ返せ」と主張し、諸葛亮は「故劉表はわが君の義兄だから、義弟が義兄の業を承け継ぐことに何の問題があるのか」と反論した。
二
魯粛は「荊州が返ってこなければ、主君に合わせる顔がない」と嘆いた。
諸葛亮は、しばらく考え込んだあと、「荊州は劉皇叔がお預かりしていることにし、蜀を得たあかつきには、荊州をお返しする」と提案した。
劉備は孫権に対して国際証書を書き、そこに保証人として諸葛亮が連署し、魯粛もそこに名を入れた。魯粛もこれで妥協するしかなかった。
魯粛はこの証書を持って、周瑜が療養している柴桑へ立ち寄った。
魯粛から一部始終を聞いた周瑜は「そのまま呉侯に報告すれば、貴公の首はあるまい」と言い、二人して懸命に思案した。
三
周瑜は声を落として、魯粛に言った。「呉妹君を玄徳へ嫁がせよう。これが荊州を取り返す絶好な機会だ」
周瑜は、劉備の正室甘夫人は病ですでに亡くなっていたことを知っていた。そして、本当に呉妹君を嫁がせるつもりはなく、劉備を呉へ招き、挙式の前後に機を計って、斬る謀略であった。
魯粛は呉都へ帰り、孫権に報告をした。
四
劉備の証文を見た孫権は、苦りきった顔となったが、次に周瑜の書簡を読み終えると、周瑜の策を褒めた。
その後、呉の使者として呂範は劉備と会談した。「両国友好のため」と言い、「呉侯孫権の妹を正室に」とすすめた。
この会談に諸葛亮は参加せずに、次室の屏風の陰にいて、呂範のはなしを聞いていた。そして、机の上で吉か凶かを占っていた。
五
呂範はひとまず客館で待機し、劉備の返事を待つことになった。
その日の夜、劉備は腹心の諸将を集め、意見を求めた。
諸葛亮は賛成した。占ったところ、大吉が出たというのである。一方、「これは周瑜の計略にちがいない」と反対意見も百出した。
「私におまかせください。決して失敗はいたしません」という諸葛亮を信頼して、「異議なし」と、全員一致した。
諸葛亮は準備をすすめた。趙雲を同行させることにし、三つの錦袋を渡した。「窮地におちいった時に、開けるといい」
建安十四年冬の初め、十艘の帆船は、劉備、趙雲、兵五百を乗せて、呉へ向かった。
呉の都門へ入るに先立って、趙雲は諸葛亮から渡された錦の袋を思い出し、第一の袋を開けてみた。「まず、喬国老を訪ねよ」とあった。
喬国老といえば、二喬の父であり、姉は孫策の夫人、妹は周瑜の夫人になっている。そのため、この国の元老と目され、上下の信望も厚かった。
袋にしたがって、劉備と趙雲は宝と酒を兵士に担わせ、都街の人目のなかを進み、喬国老の邸へいきなり行った。