・諸葛亮、蛮軍三砦を破る
あらすじ
蜀軍の益州平定によって、永昌郡の太守王伉(おうこう)を攻めていた反蜀の勢力が解けた。
王伉は、城門をひらいて、諸葛亮の軍を迎え入れた。
王伉の家臣である呂凱(りょがい)が城を守った一番の功労者であることを知った諸葛亮は、呂凱を呼んだ。
呂凱は、みずから作成した南蛮国の地図を諸葛亮に差し出した。
永昌の城にて、充分な装備を準備し、蛮地の研究をした後、諸葛亮の軍は南へ向かった。
途中、劉備の使いとして馬謖(ばしょく)が諸葛亮の軍に来た。
労をねぎらうため、成都の酒を運んできたのである。
その日の夕方、諸葛亮の軍は酒を楽しんだ。
諸葛亮は、劉備へ使いを出し、馬謖(ばしょく)をそのまま諸葛亮の軍に同行させ、そばに置くと報告した。
例の四輪車に乗り、白羽扇(びゃくうせん)を手にもった諸葛亮は、五十万の兵とともに進軍した。
諸葛亮の軍が攻めてきたことを知った南蛮国王の孟獲(もうかく)は、六万の兵とともに蛮都を出た。
その布陣は、それぞれ二万に分け、金環結(きんかんけつ)を第一、董荼奴(とうとぬ)を第二、阿会喃(あかいなん)を第三としていた。
迎え撃つ諸葛亮の軍は、王平は左軍、馬忠は右軍、諸葛亮自身は趙雲(ちょううん)、魏延(ぎえん)とともに中央とした。
馬忠は、途中で捕らえた蛮軍の兵に道案内をさせ、夜半、金環結(きんかんけつ)は幕舎を襲った。
金環結の兵は驚いて、戦わずに、董荼奴(とうとぬ)や阿会喃(あかいなん)の陣へ逃げ走ると、今度は、魏延と趙雲がこの陣を攻めてきた。
諸葛亮の軍の大勝であった。
金環結の首を獲り、阿会喃と董荼奴を生け捕ったのである。
諸葛亮は、阿会喃と董荼奴の縄を解き、酒を与え、夜になると、二人を放った。
「御恩は忘れません」と二人は言い残し、涙を流して去って行った。
メモ
●累卵(るいらん)
積み重ねた卵。不安定で崩れやすいので、物事が非常に危ない状態にあるたとえ。