馬謖を斬る(ばしょくをきる) 三国志 五丈原の巻

・馬謖を極刑に処す

あらすじ

司馬懿(しばい)は長安で、帝曹叡(そうえい)に会った。
今後の対応を協議した結果、魏は蜀を攻め進まず、まずは国力を充実させることとした。
長安には郭淮(かくわい)と張郃(ちょうこう)を置き、曹叡は洛陽へ帰った。

一方、漢中へ引き揚げた諸葛亮は、趙雲(ちょううん)と鄧芝(とうし)の二部隊が帰って来るのを待っていた。
やがて、痛ましい姿で二部隊が帰り、最後のしんがりを務めた趙雲に、諸葛亮は黄金五十斤(きん)と絹一万疋(びき)の恩賞を与えた。
しかし趙雲はこれを辞退した。
戦いに敗れたのに、恩賞をいただけば、諸葛亮の賞罰の基準がおかしいと批判がでますと言った。
諸葛亮は感心した。

一方で、馬謖の問題が残っていた。
結論を出すために、まずは副将だった王平に事情を聞き、魏延と高翔にも聞いた。

最後に馬謖を呼び、事情を聞いた。
最初は打ちしおれている様子であったが、諸葛亮の激しい叱責により、顔色を変え、反論をした。
馬謖の反論は、自己を正当化するものであった。
諸葛亮は、馬謖に極刑を命じた。

まもなく、馬謖の首を見た諸葛亮は、馬謖を大将に選んだ自身の判断を責め、床に泣き伏した。
時は蜀の建興六年夏五月。馬謖三十九歳のときであった。

諸葛亮は自責の念にかられ、蜀帝に一文を送った。
国家の兵を多く失ったことを詫び、丞相の職を返すという内容であった。
蜀帝は、諸葛亮は丞相のままでよいと慰留に努めたが、法を厳格に守るべきだと返事するばかりであった。
やむを得ず、諸葛亮を右将軍として兵を総督させることにした。

諸葛亮は漢中に留まり、復興につとめた。

メモ

●仮借(かしゃく)
大目に見てやり、まあまあと許すこと。

●不明(ふめい)
物事を見通す見識がないこと。

●捲土重来(けんどちょうらい)
一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して巻き返すことのたとえ。

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