後蜀三十年(ごしょくさんじゅうねん) 篇外余録

内容

諸葛亮(しょかつりょう)が亡くなった翌年、蜀(しょく)の建興(けんこう)十三年、楊儀(ようぎ)は官を剥奪され官嘉(かんか)に流される。丞相になれず、自身の位に不満をもつ楊儀が不穏な行動に出る、との気配があったためだ。

楊儀はそこで自らの命を絶つ。

蒋琬(しょうえん)は尚書令(しょうしょれい)となり、国事一切の処理にあたる。

蜀の建興十三年四月、蒋琬は大将軍尚書令に累進し、そのあとを費褘(ひい)が代って就任。呉懿(ごい)は新たに車騎将軍となり、漢中を総督する。

諸葛亮が亡くなり、呉は露骨な態度にでる。蜀と同盟を結んでいため、「蜀を魏から守らねば」との口実で、数万の兵を蜀国境の巴丘(はきゅう)へ出す。

蜀は直ちに兵を出して対峙し、外交折衝に努め、呉は国境から兵をひく。

建興十五年、蜀は延凞(えんき)と改元。

延凞七年三月、魏は曹爽(そうそう)が総指揮となり、十数万の兵を漢中へ向ける。

その途中で蜀軍は迎え撃ち、魏軍を退却させる。

蜀の蒋琬(しょうえん)と董允(とういん)が続けて亡くなる。

宦人(かんじん)の黄皓(こうこう)が、日ごろから蜀帝の寵愛を受けていることを利用し始める。

蜀の延凞(えんき)十年の秋、姜維(きょうい)は雍州(ようしゅう)を攻める。

魏の郭淮(かくわい)・陳泰(ちんたい)などが、この防戦にあたるが、魏に退路を断たれ、多くの脱走者を出した蜀は退却。

蜀の費褘(ひい)は、宴席で魏の降将郭循(かくじゅん)に斬られる。

延凞(えんき)十八年八月、姜維は魏の王経(おうけい)と洮西(とうせい)で戦い、大戦果をあげる。

姜維は魏の名将鄧艾(とうがい)と段谷(だんこく)で戦い、惨敗を喫する。

延凞二十年、姜維は秦川(しんせん)を攻める。

対して鄧艾(とうがい)・司馬望(しばぼう)が率いる魏軍は、姜維率いる蜀軍を避けて、当たらない。

その結果、蜀軍は消耗し、戦果もなく終わる。

蜀は、延凞(えんき)二十年を以て、景燿(けいよう)元年とあらためる。

黄皓(こうこう)などの宦臣(かんしん)が蜀帝を歓楽へと誘導。

蜀帝劉禅(りゅうぜん)は、この頃から国政よりも日夜の歓宴に浸り始める。

姜維は劉禅に黄皓を排除するようにと進言。しかし歓楽のなかにある蜀帝に聞く耳はない。

景燿(けいよう)六年の秋、魏の鄧艾(とうがい)と鍾会(しょうかい)を大将とし、数十万の魏兵が漢中へ進撃。

蜀の前衛は総崩れとなる。

剣閣(けんかく)の要害で、蜀の姜維(きょうい)は、魏軍を防ぐ。

鄧艾率いる魏軍は、陰平(いんぺい)への進路をとり、成都(せいと)へ突入。

蜀人は魏軍が攻めてくるとは思ってもいなく、城郭の防備などない。蜀宮は混乱。劉禅は泣いて、うろたえるのみ。

劉禅の五男北地王諶(ほくちおうじん)は魏と最後まで戦うべきだと主張。しかし受け入れられず、祖父の昭烈(しょうれつ)廟へ行って、自ら命を絶つ。

重臣譙周(しょうしゅう)の勧めにより、劉禅は魏に降伏。蜀は成都創府以来、二世四十三年で終わる。

剣閣の要害にて魏軍を防いでいた姜維は勅命を受け、魏軍に降伏。

姜維は魏の鍾会(しょうかい)に反抗したため、妻子一族とともに首を斬られる。

劉禅は洛陽に移され、魏から安楽公(あんらくこう)に封ぜられ、すこぶる平凡な日を過ごす。

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