御林の火(ぎょりんのひ) 三国志(八)図南の巻

・金褘、耿紀、韋晃、吉邈、吉穆の反乱

あらすじ

金褘らは、決行の日を正月十五日と決め、その日となった。

王必の陣営では、酒宴がひらかれており、たいへんな賑わいである。王必に招かれていた金褘(きんい)は、ひどく酔ったふりをして、酒宴から抜け出そうとした。その様子を見た王必は、酒宴はこれからだと、席に戻した。そのとき、王必の陣営二か所から火が出たとの知らせが入り、酒宴は静まり返った。酒宴の席に、煙が流れ込み、火は陣営のすぐ裏と南門の傍らから燃えだしていた。王必は、慌てて馬に乗り、南門へ向かった。反乱軍は、西門と南門に分かれて攻め込んだ。反乱軍を率いる耿紀(こうき)の前に、馬に乗って、南門へ向かう敵兵がいた。耿紀は、その敵兵に矢を放った。矢は、その兵の肩にあたり、馬から転げ落ちたが、耿紀は、そのまま中へ突き進んで行った。じつは、その転げ落ちた兵は王必だったのである。王必は、馬をひろい、燃えている南門の外から市街へ逃げた。郊外にいる夏侯惇(かこうじゅん)へ、急を告げに行くつもりだったが、道を間違えて馳けまわるうちに、肩の傷から血があふれ、目がかすんできた。この辺に、金褘の邸があることを思い出した王必は、そこで傷の手当をすることにした。金褘の門を叩いたが、門番も奴僕(ぬぼく)もいない。奥のほうから出て来た誰かが、扉を内から開けようとしている。
「お帰りなさい。今すぐ開けます。王必をお討ちになりましたか」
その声は金褘の妻であり、夫が帰ってきたものと思ったのである。王必は仰天し、慌てて駆け出し、こんどは、曹休の邸へ向かった。王必は曹休にすぐに会って、詳細を話した。曹休は、一族と郎党を率いて、禁門へ急いで向かった。

曹休らは、市街で戦い、禁門で戦い、反乱兵を斬り、宮中を守っていた。そのうちに、都の空の赤さに気づいた城外五里の地に駐屯していた夏侯惇(かこうじゅん)は、三万騎を率いて、続々と、市街へ入ってきた。禁中では、曹休が軍馬を並べて守っている。韋晃は、計画どおり合流する場所にいるが、金褘や耿紀はやってこない。太医吉平のふたりの息子、吉邈(きっぽう)と吉穆(きつぼく)は、夏侯惇の大軍に出会い、兄弟はともに討ち死にしていた。
火もほとんど消え、陽が昇った頃には、首謀者以下を捕らえており、この反乱が終息したことを、鄴都(ぎょうと)にいる曹操へ早馬を出して報告した。

この報告を聞いた曹操は、漢朝の旧臣と名のつく輩を、鄴都へ送れと、命じた。捕らえられた耿紀と韋晃であるが、耿紀は首を刎ねられ、韋晃は、自ら頭を大地へ叩きつけて死んだ。一方、御林軍の大将王必は、矢傷がもとで、間もなく死んだ。

鄴都に着いた百官たちを、曹操は魏宮の庭園に立たせ、庭園にある紅か白の旗のもとに立てと命じた。先頃起こった乱のとき、火を防ぎに出た者は紅の旗の下に、門を閉じて出なかった者は白い旗の下に、立てというのだ。百官たちは、おたがいの顔を見合わせて、そわそわしている。ひとりが動き出すと、皆も動き出し、八割の者が紅の旗の下へ集まった。曹操は、高台の上からその様子を見届けるや、武将に命じた。
「紅の旗の下に集まった輩は、異心ありの者だ。一人のこらず打ち首だ」
紅の旗の下に集まった四百余名の官人たちは、驚き、悲鳴をあげた。この者たちは、火を防ぐなどしておらず、曹操の顔色をうかがって、火を防いだとしていたのである。一方、白旗の下に立ったわずかな百官たちは、許都へ返された。

その後、宮廷の人事について、大改革が行われた。鍾繇(しょうよう)を相国(しょうこく)に、華歆(かきん)を御史大夫(ぎょしたいふ)に、曹休を御林軍総督に任じた。許都で起こった乱により、曹操は管輅(かんろ)に感謝した。曹操は遠くへ出るべきではない、という管輅の予言に従ったため、この災いを最小にとどめることができたからだ。曹操は「褒美をやる。何なりと望め」と管輅に言ったが、管輅は、丁寧に、断った。

メモ

●蹌踉(そうろう)
足もとが定まらず、ふらふらとよろけるさま。

●倉皇(そうこう)
あわてふためくこと。

●騒擾(そうじょう)
騒いで秩序を乱すこと。

●余燼(よじん)
燃え残りの火。

●相国(しょうこく)
宰相職。

●御史大夫(ぎょしたいふ)
副宰相。

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