髪を捧ぐ(はつをささぐ) 三国志 五丈原の巻

・周魴の策

あらすじ

呉に面している揚州の司馬大都督曹休(そうきゅう)から上表があった。
呉の鄱陽(はよう)太守周魴(しゅうほう)が呉をやぶる計を送ってきたというのだ。

周魴の策にのるか、のらないか。

一か月後、魏は、皖城(かんじょう)、東関、江陵の三道へ向かって、軍を南下させた。

魏軍の動きを知った呉の陸遜(りくそん)は、呉軍を三道三手にわけて向かわせた。

曹休は大軍を率いて、皖城(かんじょう)へ向かった。
周魴と会った曹休は、念押しの確認をした。
周魴は自身の束ねていた髪の毛を切り落とし、偽りでないことを誓った。
曹休に疑いは消え、東関攻略の打ち合わせを行った。

自陣に戻った曹休のもとに、賈逵(かき)が訪れた。
周魴はあやしいというだ。

東関攻略を中止するか、進めるか。

次の日、曹休は、東関へ軍を進めた。
賈逵は、昨日の発言を叱責され、居残りを命じられた。

周魴(しゅうほう)も一隊を率いて合流し、攻め口の案内を勤めた。
前方に険しき山、石亭が見え、その向こうに東関があるという。
曹休は石亭の山上にのぼり、要所に兵を配した。

二日後、偵察の兵が、西南の麓に呉の兵を見つけた。
周魴のことばによれば、この辺に呉軍はいないはず。
気づくと、周魴とその一隊の姿がない。

撤退か攻撃か。

曹休は、張普(ちょうふ)に、西南の麓に見える呉兵を攻撃するよう命をだした。
しばらくして、張普の軍は打ち負けて引き揚げてきた。
相手は呉の精鋭部隊といわれている徐盛軍(じょせいぐん)だったのである。

撤退か攻撃か。

曹休は、明日の朝、三万の兵で徐盛軍を攻めると決め、準備を命じた。

ところが、その晩、呉軍は曹休の陣営を攻めにでた。
曹休の陣営は、大混乱し、夾石道(きょうせきどう)方面へ逃げ走った。
曹休の命が助かったのは、皮肉にも、曹休に叱責され、居残りとなっていた賈逵(かき)のおかげである。
周魴のあやしさを確信していた賈逵は、曹休の身を案じるあまり、曹休の命を破り、一軍を率いて石亭の北山に向かったのである。
そこで、たまたま曹休とぶつかり、救出して帰ったのである。

三道のうちのひとつ、曹休の軍が呉に敗れたため、残りの二道を進む司馬懿軍と万寵軍(まんちょうぐん)は、引き退がることとなった。

呉軍は、多くの戦利品と数万の降人をもって、建業へ帰っていった。

メモ

●金枝玉葉(きんしぎょくよう)
天子の一族・子孫を貴んでいう語。

●門地(もんち)
いえがら。

●天質(てんしつ)
うまれつき。天性。

●反間(はんかん)
敵の内部の仲間割れを図ること。

●髻(もとどり)
髪の毛を頭の上に束ねた所。

●譴責(けんせき)
きびしく責めること。

●来合せる(きあわせる)
ちょうどやって来て、たまたま出会う。

●一角(いっかく)
一つの方面。

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