内容
袁紹(えんしょう)軍が黎陽(れいよう)まで進出してきたという知らせが許都(きょと)に入る。
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その日。曹操は諸将を集め、意見を求めた。
「袁紹(えんしょう)を打ち破るべき」荀彧(じゅんいく)は言った。
「否」孔融(こうゆう)は言った。「袁紹(えんしょう)を軽々と評価してはいけない」
「和議を求めて行ったら、袁紹(えんしょう)をつけあがらせ、百年の悔いを残すだろう」荀彧(じゅんいく)は反論した。
曹操は袁紹(えんしょう)との戦いを選んだ。
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曹操自身は兵二十万とともに黎陽(れいよう)へ向かい、配下の劉岱(りゅうたい)と王忠(おうちゅう)には五万の兵と丞相旗を与え、劉備のいる徐州(じょしゅう)へ向かわせた。
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黎陽(れいよう)では、曹操軍は袁紹(えんしょう)軍と八十余里を隔てたまま、八月から十月まで互いに守るのみであった。
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曹操は忍びの者に袁紹(えんしょう)軍の内情を探らせた。
報告によると、大将逢紀(ほうき)は病となり、審配(しんぱい)が代わりに指揮にあたっていたが、審配(しんぱい)と仲の悪い沮授(そじゅ)は審配(しんぱい)の指揮に従わないというのだ。
いずれ内紛が起こると見通しをつけた曹操は、曹仁(そうじん)を総大将とし、諸大将や兵を陣地に残して、許都(きょと)へ帰った。
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