内容
袁紹(えんしょう)はわずか八百騎ほどの味方に守られながら、逃げていった。
配下田豊(でんほう)の諫めを用いていればと袁紹は後悔した。
田豊とは仲のよくない逢紀(ほうき)は袁紹に、獄中の田豊は袁紹軍の大敗を聞いて手を打って笑っていたそうです、と言った。
袁紹は激怒し、冀州(きしゅう)城に戻ると、田豊に、みずから命を落とすよう命じた。
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ある日。袁紹は、逢紀(ほうき)、審配(しんぱい)、郭図(かくと)、辛評(しんひょう)の四大将を呼んだ。
「世継ぎを三男袁尚と考えているが、そち達はどう思う」袁紹は意見を求めると、嫡子(ちゃくし)袁譚(えんたん)派の郭図は反対した。
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曹操軍は黄河の線に全軍をあつめ、兵馬を休養させていた。
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袁紹は三十万の兵を倉亭(そうてい)まで進めたため、曹操も全軍を進め、対峙した。
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開戦第一日。袁紹の三男袁尚(えんしょう)が曹操へ討ってかかった。手柄をたてるためだ。
対する袁紹軍は徐晃(じょこう)の部下史渙(しかん)がでた。
袁尚はすぐに逃げ出したため、史渙は追った。
袁尚は振り向き、一矢を放つと、史渙の左目に矢が立った。
一日目も二日目も、袁紹軍は大勝した。
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曹操軍は退却を始め、黄河を後ろに布陣を敷いた。
そして部隊を十に分けて配置し、袁紹軍を待った。
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ある夜。曹操軍許褚(きょちょ)が袁紹軍を奇襲した。
許褚は戦っては逃げを繰り返したため、黄河の畔まで袁紹軍の前線は伸び、袁紹軍の陣形を変形させた。
突然、袁紹の本陣を囲むように、四方から曹操が配置しておいた十の部隊が現れた。
袁紹は三人の息子とともに逃げた。
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次の日。逃げに逃げた袁紹軍は一万ほどの数になっていた。
老齢な袁紹は馬のたてがみへうつ伏せしたまま動かずにいた。
長男袁譚は袁紹を抱きかかえて逃げた。
「苦しい。おろしてくれい」袁紹はかすかな声で言った。
「そちたち兄弟は、父の怨みを晴らせよ」袁紹は命を落とした。
袁紹の息子たちは冀州城へ戻ると、袁紹は病であるとし、三男袁尚が代理で執政することとした。
二男袁煕は幽州へ、長男袁譚は青州へ引き揚げた。
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袁紹に大勝した曹操は都へ戻ることにした。
その途中、早馬が曹操に、汝南(じょなん)にいる劉備が劉辟(りゅうへき)、龔都(きょうと)とともに都を攻める動きあり、と知らせた。
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