内容
「曹操が来る」と聞いた袁尚(えんしょう)は、平原(へいげん)の囲みを解いて、鄴(ぎょう)城へ退却した。
袁譚(えんたん)は城を出て、袁尚軍の後陣を攻めた。そして、しんがり大将の呂曠(りょこう)と呂翔(りょしょう)を手なずけて、曹操に仕えさせた。
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曹操は自分の娘を袁譚に嫁がせた。
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冬の間、戦いはなかった。
この期間、曹操は数万の人夫を動員し、淇水(きすい)の流れを白溝(はっこう)へ通じるように運河を作っていた。
建安(けんあん)九年の春。運河は開通し、多くの兵糧船が都から下ってきた。
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鄴城にいる袁尚配下の審配(しんはい)は運河開通を知り、曹操軍対策を袁尚へ進言し、実行した。
・武安(ぶあん)にいる尹楷(いんかい)は毛城(もうじょう)に兵と兵糧を集める。
・沮授(そじゅ)の子沮鵠(そこう)を大将にし、邯鄲(かんたん)の野に大布陣を敷く。
袁尚自身は軍を率いて、平原(へいげん)にいる袁譚を攻めた。
袁譚は曹操に急ぎ救援を求めた。
曹操は曹洪(そうこう)に鄴城へ向えと命じた。自身は毛城を攻めて、尹楷を討ち取り、邯鄲に陣を敷く沮鵠を破った。
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先に鄴城を囲んでいた曹洪の軍と合流した曹操軍は七日に及んで攻め続けたが、審配が守る城は落ちなかった。
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袁尚の軍は陽平(ようへい)という地まで戻り、城に通じる道が開くのを待っていた。
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主簿(しゅぼ)である李孚(りふ)の意見により、審配は城内にいる数万の飢える女子や老人を城外に追いだした。
曹操は追い出された彼らを自陣のなかに入れてやった。
しかし彼らに紛れてあとについていった城兵たちは、曹操軍に斬られた。
城外に出た兵たちは、慌てて城に引き返し、曹操軍も混乱に乗じて一緒に城内に入った。
審配は防御の采配をふるい、外城の門は敗られたが、内城の壁門は固く守った。
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ある夜。曹操は袁尚の先鋒である馬延(ばえん)と張顗(ちょうぎ)を味方に引き込んだのち、陽平にいる袁尚軍を攻めた。
袁尚軍は敗走し、濫口(らんこう)まで逃げたが、四方から焼き討ちを受けたため、ついに降伏をした。
「明日、会おう」曹操は袁尚に伝えたが、その夜、袁尚を斬る計画を立てた。
袁尚は間一髪の危機をのがれ、中山(ちゅうざん)方面へ逃げ走った。
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曹操はふたたび城攻めにかかった。内城の周囲四十里にわたって漳河(しょうが)の水を引き込み。城中を水攻めにした。
袁譚の使いとして曹操のところに止まっていた辛毘(しんび)は、城中の者に降伏をすすめた。
「この国の恩を忘れたか」審配は人質としておいていた辛毘の妻子一族を斬った。
辛毘は城中にいる審配の甥にあたる審栄(しんえい)へ矢文を送り、内応の約束を結んだ。
審栄はうちから西門の一部を開き、冀州の本城は敗れ、審配は捕らえられた。
審配は袁氏の廟地(びょうち)をおがんでから、首を差し出した。
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