漢中併呑(かんちゅうへいどん) 三国志(八)図南の巻

・曹操、漢中を獲る

あらすじ

曹操は、曹仁、夏侯惇、賈詡(かく)を呼びよせ、密儀を開き、蜀が東に進むことができないように、漢中の張魯(ちょうろ)を討つことにした。

一方、漢中では、魏軍が漢中に迫っていると知り、連日、軍議が開かれ、地勢がけわしく、守るのに都合のよい陽平関(ようへいかん)を中心に、守ることになった。張衛を大将にし、楊昂(ようこう)、楊任(ようじん)などが、前線へ向かった。魏の先鋒隊は、陽平関から十五里ほどのところに、陣地を築きはじめていた。

陽平関をめぐる魏軍と漢中軍との最初の戦いでは、夏侯淵と張郃(ちょうこう)が率いる魏軍が大敗を喫した。敗因は、魏軍がここの地勢を把握していなかったことと、漢中軍の奇襲の策が成功したことにあった。前線から逃げ帰ってきた先鋒の醜態に、曹操はその大将夏侯淵と張郃(ちょうこう)を怒った。曹操は、許褚と徐晃を従えて、一高地へ登った。そこからは陽平関の漢中軍が見える。漢中軍張衛の布陣を見た曹操は、敵ではないと思ったのか、口元を緩めていた。その時、背後の一山から、雨のように矢が飛んできた。振り返ると、漢中軍の楊昂、楊任、楊平などの旗じるしが見える。曹操は急いで逃げ帰った。この日から三日間、魏軍は莫大な兵を失った。曹操は、陣を七十里ほど退いて、漢中軍と対峙した。そして五十余日が経った。漢中軍の強さがわかり、曹操は、ひとまず許都へ戻り、出直すことにした。一夜のうちに、魏軍は消えた。

漢中軍の帷幕(いばく)では、魏軍を追撃すべしという楊昂(ようこう)と、追撃すると曹操の謀計にかかるという楊任とが対立した。結論が出ないまま、楊昂は軍馬を率いて、追撃に出てしまった。その日は、わずかな距離でもわからないほどの濃霧がたちこめていた。楊昂の軍勢が出た夕方、「開門っ」と、陽平関の下で、軍馬がひしめき叫んでいた。楊昂の軍が帰ってきたものと、門を開くと、魏軍夏侯淵が率いる三千の兵がなだれ込んで来た。魏兵は城内へ入るなり、八方に火をかけた。夜であり、守りが手薄であったため、たちまち、魏軍に占拠された。総司令の張衛(ちょうえい)は、いち早く、南鄭関(なんていかん)へ逃げ落ちた。魏軍を追撃するために出ていた楊昂は、後方の火の手に驚いて、追撃を止め、あわてて引き返した。しかしその途中、許褚の軍が待ち構えており、楊昂の軍は粉砕され、楊昂は戦死した。残る楊任は、張衛のあとを追って南鄭関(なんていかん)へと逃げのびた。このみじめな敗戦に、漢中の張魯は激怒して、「これ以上、退く者は、即座に首を刎ねる」と、督戦令を出した。そのため楊任(ようじん)は、ふたたび陽平関へ戦いに出たが、途中、夏侯淵の軍に遭遇し、戦死してしまった。

曹操の大軍は、陽平関を落とし、南鄭関まで迫っている。漢中の府は南鄭関から目と鼻の先にある。漢中の張魯は、震えあがった。ここで、曹操に対抗するため、龐徳(ほうとく)が呼ばれた。龐徳は、馬超とともに漢中にきた者である。病のため治療をしていたが、今は病も癒えている。龐徳は、その恩義もあり、兵一万余騎を率いて、直ちに前線へ向かった。

龐徳が来る、という知らせに、曹操は、「西涼の勇将であった者である。手捕りにして、魏の味方にせよ」と、全軍の諸将へ命じた。そのため、龐徳の前に出て接戦しては退き、新手と代わるを、繰り返したが、龐徳は疲れない。そこで賈詡(かく)が一計を曹操にさずけた。

翌日、龐徳と魏軍との戦は、魏軍が崩れ、魏軍は十数里退いた。あまりにも手ごたえのない魏軍の戦い方に、龐徳は不審に思った。魏軍が退いた陣屋には、たくさんな兵糧や軍需品が残っていたので、兵に、それらを南鄭(なんてい)の城内へ運ばせた。ところが、兵糧や軍需品を運ぶ兵の中に、魏の兵が変装して混じっており、魏の兵も南鄭(なんてい)の城内へ入って行った。その日の夜半、龐徳が占拠した魏の陣屋に、魏の大軍が四方から攻めてきた。「その策には乗らぬ」と、龐徳は魏軍とは争わず、南鄭(なんてい)城内へすぐに引揚げた。変装して城内に入っていた魏の兵は、城内に住む楊松の邸へ訪ね、「てまえは、魏公曹操の腹心の者です」と、正面を切って身分を明かし、黄金の胸当てと曹操直筆の書簡とを取りだして、楊松へ渡した。楊松は賄賂(わいろ)を好む貪欲家として有名である。黄金の胸当てを見て、目を細めた。そのうえ、曹操の文には、張魯を降伏させれば、特別な爵位を与えるとある。楊松は承諾し、すぐに、張魯のもとへ向かい、手始めに、龐徳を落とし入れることにした。
「龐徳は、馬超の身内で、信用できません。魏の陣屋を占領しておきながら、戦わずに魏に明け渡しております。曹操と内通し、今度は南鄭城を曹操に与えようとしているのかもしれません」
これを聞いた張魯は、すぐに龐徳を呼び返した。急いで戻った龐徳に対して、張魯は、「裏切り者め」と激怒し、首を斬れと命じた。かたわらにいた閻圃が慌てて張魯を諫めた。張魯は、しぶしぶ閻圃の諫めに従って、「魏軍を倒さなければ、軍律に照らして、首を斬る」と言った。この一件で、龐徳の、張魯に対する恩義はなくなった。龐徳は、自滅を覚悟した者のように、ひとりで魏軍に斬り入っていった。そのとき、丘の上から曹操が龐徳に呼びかけた。
「龐徳。どうして急に犬死しようとするのか。命を粗末にするな」
龐徳は、曹操を死の道づれにと、曹操へ向かって馬を走らせた。その時、曹操の口元が緩んだ。丘のふもとで、龐徳は深さ二十尺もある落とし穴に馬とともに落ちてしまった。曹操は龐徳を手に入れた。そして龐徳は降伏して、曹操の一臣となった。そのことを知った張魯は、「楊松のいったとおりだ」と、ますます楊松を信頼した。方針はすべて楊松の言うとおりにしたが、楊松は曹操と内通しているため、南鄭(なんてい)は落城し、漢中市街は、曹操軍に囲まれた。張魯の弟の張衛(ちょうえい)は、「全市全城を焼き払おう」と、主張したが、楊松は反対して、無血譲渡をすすめた。張魯は、「国財を焼棄(しょうき)するは、天を怖れぬものだ」と言い、城内の財宝倉庫に封を施し、一族をつれて、その夜二更の頃、南門から巴中(はちゅう)へ逃げ落ちた。

占領後、曹操は、「財宝倉庫を封印して、次代の司権者に渡すというのは、張魯の善行といえる」と言い、張魯が降参するならば、一族は保護してやると、巴中へ使者を出した。楊松は降参をすすめた。しかし張衛は反対し、魏軍に戦いを挑んだ。そして討死した。

曹操は巴中へ進出した。張魯は楊松とともに城を出て、曹操に降伏した。曹操は馬を降り、張魯の手を取って、鎮南将軍に封じると言い、旧臣のうち、五人を選んで、列侯に加えた。しかしその中に、楊松の名はなかった。しかし楊松は気にしなかった。曹操との密約があるため、特別な爵位が与えられると思っているからだ。

漢中平定の祝賀の日。街の辻で、楊松の首は斬られた。

メモ

●虎侯(ここう)
許褚の渾名。

●咫尺(しせき)
わずかの距離。

●鹵獲品(ろかくひん)
戦場において、商取引なしに入手した物資や兵器のこと。

●恩爵(おんしゃく)
特別に与える爵位、身分。

●讒言(ざんげん)
他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと。

●佞弁(ねいべん)
口先の巧みなこと。

●顛倒(てんとう)
平常の落ち着きを失ってうろたえること。

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