漢中王に昇る(かんちゅうおうにのぼる) 三国志(八)図南の巻

・劉備、漢中王となる

あらすじ

武力によって魏を撤退させ、漢中を治めた蜀。
諸葛亮は漢中王に即位するよう劉備に薦めた。
しかし劉備は頑なに拒否した。国賊である曹操の真似をすれば、国賊曹操を討つ大義がなくなってしまうというのだ。
しかし諸葛亮や諸将らの度重なる進言により、劉備はついに許した。

建安二十四年の秋七月。沔陽(べんよう)にて、即位の儀式が行われた。
同時に、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲の五将を、五虎大将軍とした。
即位の後、劉備は書をもって、その旨を天子に奏上した。
朝廷はその秋、「漢中王領大司馬」の印綬を劉備に贈った。

そのことを知って魏王曹操は、諸将に蜀を攻めると宣言すると、司馬懿が前に進み出た。蜀を攻めるよりも、蜀と呉を争わせ、疲弊するのを待ってから、攻めるのがよいというのだ。
曹操は司馬懿の提案を認めた。

曹操は、早速、呉へ使者を送り、呉が荊州を攻めれば、魏は蜀を攻めると申し出た。
この申し出を断れば、呉は魏を敵にすることになる。
諸葛瑾(しょかつきん)は孫権に献策した。孫権の息子と関羽の娘を婚姻させ、呉と蜀で魏に対抗せよ。関羽が断わったら、魏の申し出を受ければよいというのだ。

孫権は、あらためて呉より魏へ使者を派遣することとし、魏の使者に礼物を与えて送り帰した。そして諸葛瑾を関羽のもとへ送った。
諸葛瑾からの申し出を聞いた関羽は「犬ころの子に、虎の娘を誰がやるかっ」と吐き捨てた。
諸葛瑾は何も言えなかった。ひと言でも発すると、関羽の剣が諸葛瑾の首をはねそうな鬼気を感じたからだ。

メモ

●謙譲の美徳(けんじょうのびとく)
人を先に立てて自分は出しゃばらないという美しい行為。

●僭称(せんしょう)
身分を越えて勝手に称号をとなえること。

●沔陽(べんよう)
漢中の西方。

●獅子吼(ししく)
大いに雄弁を振るうこと。

●拱手(きょうしゅ)
腕組みすること。転じて、何もせずにいること。

●世子(せいし)
天子・諸侯・大名など、貴人の跡継ぎ。

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