内容
武力によって魏(ぎ)を撤退させ、漢中(かんちゅう)を治めた蜀(しょく)。
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諸葛亮(しょかつりょう)は漢中王に即位するよう劉備(りゅうび)に薦める。
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劉備は頑なに拒否。国賊である曹操(そうそう)の真似をすれば、曹操を討つ大義がなくなってしまうというのだ。
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諸葛亮や諸将らの度重なる進言により、劉備はついに許し、建安(けんあん)二十四年の秋七月、沔陽(べんよう)にて即位の儀式を行う。
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関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・黄忠(こうちゅう)・趙雲(ちょううん)の五将を五虎(ごこ)大将軍とした。
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即位の後、劉備は書をもって、その旨を天子に奏上。
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朝廷はその年の秋、「漢中王領大司馬」の印綬を劉備に贈る。
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そのことを知った魏王曹操は諸将に蜀を攻めると宣言すると、司馬懿が前に進み出て「蜀を攻めるよりも、蜀と呉(ご)を争わせて疲弊するのを待ってから攻めるのがよい」と提案。
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曹操は呉へ使者を送り、呉が荊州(けいしゅう)を攻めれば、魏は蜀を攻めると申し出る。
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諸葛瑾(しょかつきん)は孫権(そんけん)に提案する。孫権の息子と関羽の娘を婚姻させて呉と蜀で魏に対抗し、関羽が断われば魏の申し出を受ければよい、というのだ。
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孫権は、あらためて呉より魏へ使者を派遣し、魏の使者には礼物を与えて帰し、諸葛瑾を関羽のもとへ送った。
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関羽は諸葛瑾からの申し出を聞き、「犬ころの子に、虎の娘を誰がやるかっ」と吐き捨てる。
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諸葛瑾は黙っている。ひと言でも発すると、関羽の剣が諸葛瑾の首をはねそうな鬼気を感じているようだった。
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