鶏肋(けいろく) 三国志(八)図南の巻

・楊修、曹操の怒りを買う

あらすじ

次男曹彰と兵五万が加わった曹操は、斜谷(やこく)で蜀軍との再戦を決めた。

劉備は諸将を集めて言った。
「曹操は、わが子曹彰を自慢するために、先鋒にするだろう。この中の誰が曹彰の首を獲ることができるだろうか」
進み出たのは、孟達と劉封(りゅうほう)のふたりだった。孟達は進み出たはいいが、劉備の養子劉封も進み出たので、困ってしまった。曹彰は曹操の実子。劉封の立場になれば、進み出るのは当然だと思ったからだ。しかし劉備はふたりに機会を与え、先鋒の左右両翼に陣を敷くよう命じた。ふたりはおのおの五千騎を率いて出た。

一方、魏軍は斜谷から平野へ戦列を敷いた。ただ一騎、その戦列から進み出て「魏王の次男曹彰とは我である。玄徳、これへ出よ」と、大声で吠えていた。孟達は劉封に遠慮して黙っていると、右陣から劉封が馬を飛ばして出た。曹彰と劉封はぶつかったが、劉封は曹彰の相手ではなかった。孟達は、急いで駆け出し、劉封と入れ代って、曹彰にぶつかった。劉封は何も言わずに逃げていったので、曹彰は孟達を振り払いながら「逃げるのか劉封。親の顔へ泥を塗ってもいいのか」と、からかいながら追いかけていった。曹彰は、ふと、後ろを振り向くと、魏の軍勢がうしろから崩れだしていた。引き返すと、蜀の呉蘭(ごらん)、馬超などが、斜谷のふもとへ出て、退路を断とうとしていた。曹彰は、すぐに魏軍をまとめ、蜀軍呉蘭の兵を蹴ちらし、斜谷の本陣へ引き揚げた。劉封は、養父劉備に合わせる顔がなかった。その反動なのか、孟達に対しては、余計なことをしやがってと、怒りを覚えていた。以来、劉封と孟達は、おたがい口を利かなくなった。

魏軍では、日ごとに士気が衰えており、良くない戦況にある。蜀の張飛、魏延(ぎえん)、馬超、黄忠、趙雲(ちょううん)が、斜谷(やこく)の下まで迫っているからだ。都から遠く離れている斜谷の地。これ以上の大敗を重ねると、本国まで帰ることすら難しくなる。「鄴都(ぎょうと)へ帰って、天下のもの笑いになるか、この斜谷で戦い、わが死に場所となるか」と、今宵も曹操は、関城(かんじょう)の一室に籠って、考えこんでいた。そこへ、膳部の官人が「お食事を」と、膳を供えてさがって行った。椀の蓋をとると、鶏のやわらか煮だった。肉の少ない鶏の肋(あばら)をほぐしつつ口へ入れていた。夏侯惇が入ってきて、今宵の合言葉を確認しに来た。「鶏肋(けいろく)鶏肋」と、曹操はつぶやいた。夏侯惇は城中の要所要所を巡って、警固の大将たちへ「今宵の合言葉は、鶏肋鶏肋」と伝えた。

行軍主簿の楊修(ようしゅう)は、部下を集めて「都へ帰る用意をせよ」と命じた。夏侯惇はおどろいて、楊修にその理由を尋ねた。鶏肋、つまり肉の少ない鶏の肋(あばら)は、肉はないが捨て難い。いま直面している戦を鶏肋にたとえているという。夏侯惇は感服して、その旨を諸将へ告げた。
その夜も曹操は、陣営を見まわっていた。曹操は夏侯惇(かこうじゅん)を呼び「いったい誰が、荷物をまとめよと命令したのか」と尋ねた。夏侯惇の言葉を聞いた曹操は、楊修を呼びつけた。楊修は曹操の前に平伏して、「こよいの合言葉は鶏肋(けいろく)と伺い、それがしがおことばのご意中を解いて、引揚げの用意をしておくようにと申しました」と言った。楊修の言動は、そのことが問題でもあるのか、というものであった。曹操は、自分の心の中を覗かれているような気がして恐れ、そして不機嫌にもなり、一喝した。朝になった。陣門の柱には、楊修の首がかけられていた。

楊修には逸話がある。かつて、鄴都(ぎょうと)の後宮(こうきゅう)に、常春(とこはる)の園ができあがった頃、曹操はその花園を見に出かけた。曹操は、良いとも悪いとも言わなかったが、帰るときに、門の額をかける横木へ「活」の一字を書いて出て行った。誰も曹操の意がわからず、うろたえていた。そこへ楊修が通りかかったので、この出来事を告げると、楊修は笑った。
「花園にしては余りにひろすぎるから、ちんまり造り直せという意にちがいない。なぜなら、門の中に活という文字をかけば、闊(ひろし)となるでしょう」
皆、感心して、すぐに庭を造り直した。ふたたび曹操は庭園を訪れると、こんどはひどく気に入ったようだ。「誰が直したのか」と曹操が尋ねたので、庭造りの役人が、楊修だと答えた。喜んでいた曹操は急に黙ってしまった。

このようなこともあった。ある時、曹操は侍側の臣に命じた。明日、長男の曹丕(そうひ)と、三男の曹植(そうしょく)とを、鄴城(ぎょうじょう)へ呼ぶが、ふたりが城門へ来たら、決して通すなというのである。曹丕(そうひ)が城門へきた。兵隊たちにきびしく止められた曹丕は、やむなく帰っていった。次に曹植が来た。同じように兵隊たちは止めると、「魏王の命あって、通るのである。誰も我を止めることはできない」と、言い捨て、通ってしまった。曹操は曹植を褒めたが、後になって、それは曹植の学問の師楊修が教えたものだとわかり、がっかりした。

また楊修は「答教(とうきょう)」という書を作って曹植に与えていた。この書は、父曹操から難しい質問があったときに見るものであり、問三十項に対する答が書いてあったそうだ。

蜀軍は、息もつかず、魏軍を攻めたててきた。曹操は乱軍の中に巻きこまれていた。魏の陣中から火があがっている。蜀軍馬超が、斜谷の壁をよじ登って、関内へ攻めこんだ結果だった。曹操は剣を抜いて「逃げる者は、斬る」と、鼓舞した。曹操の姿を見た蜀軍魏延、張飛が、曹操に攻めかかった。逃げれば部下に命じた言を裏切るものであるため、曹操自身も逃げることができなくなった。蜀軍魏延と向き合っていた曹操の前に魏軍龐徳(ほうとく)が、馬をとばして助けにきた。龐徳は魏延を相手にし、また、迫りくる蜀軍を防いでいた。後ろから「あッ」という曹操の声がし、振り返ると、曹操は落馬していた。龐徳は慌てて曹操の元へ駆けつけた。曹操は両手で口をおさえており、顔半分から両手まで血にまみれていた。曹操の前歯二本は欠けていた。おそらく、蜀軍が放った矢が曹操の口を射たのであろう。龐徳は、曹操を馬上に乗せ、落ちて行った。すでに斜谷の関城は、炎につつまれており、魏軍は完敗した。曹操の顔は腫れあがり、深く刀で斬られた傷もある。曹操は車のなかで横になり、残余の兵を率いて帰った。途中、蜀軍が猛追してきたが、何とか、京兆府(けいちょうふ)まで逃げ走った。

メモ

●斟酌(しんしゃく)
先方の事情をくんでやること。

●盒(ごう)
ふたつきの器。

●憚る(はばかる)
他に対して恐れつつしむ。

●峻拒(しゅんきょ)
きびしく拒絶すること。

●讒する(ざんする)
他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと。

●督戦(とくせん)
部下を監督激励して戦わせること。

●金瘡(きんそう)
刃物による切り傷のこと。

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