建業会議(けんぎょうかいぎ) 三国志(九)出師の巻

・呉、荊州攻めを決す

あらすじ

関羽の腕の手術を終えた華陀(かだ)は、次の日、関羽を見舞いに来た。
関羽の腕は痛みもなく、昨夜は熟睡できたという。
華陀は「怒気(どき)を発することは禁物です」と告げると、百金も手に取らず、小舟に乗って、江上へ去って行った。

魏王宮では、樊川(はんせん)地方の敗戦、龐徳(ほうとく)の戦死、于禁(うきん)の投降などが早馬で知らされ、大会議が開かれていた。
その場で司馬懿(しばい)は言った。「関羽の勢いが伸びるのを嫌うのは呉の孫権です。関羽の後ろを突けといえば、孫権はかならず呼応するに違いありません」
曹操は徐晃(じょこう)を大将に選び、兵五万を与え、陽陵坡(ようりょうは)に向かわせ、待機させた。
これは、呉軍が関羽を攻めれば、徐晃の軍も関羽を攻めるという意思表示であった。

呉の主都建業では、魏の急使が曹操からの申し出を伝えていた。
建業城中でも大会議が開かれた。
そこに、上流陸口(りっこう)の守備をしていた呂蒙(りょもう)が戻ってきた。
呂蒙は、荊州をとれという。そしてその策も述べた。
孫権は、呂蒙に全権を与えた。

呂蒙は再び速船(はやぶね)で陸口へ戻り、荊州方面へ隠密を放った。
報告によると、要所要所に烽火台(のろしだい)を築いており、変があれば、つなぎ烽火によって連絡がとれ、すぐに兵を動かせるしくみになっているという。
これを知った呂蒙は、寝込んでしまい、その噂を聞いた孫権は、陸遜(りくそん)に呂蒙の容体を確認するよう命じた。

陸遜は呂蒙に会うと、「病の原因は、荊州の防衛力が強固で、予想に反していたことではありませんか」と言った。
つづけて、「陸口に一流級の大将呂蒙殿がおられると、関羽も警戒してしまう。呂蒙殿は大病と称して建業に帰り、名もない将を代わりに置くと、関羽も油断し、樊城攻めに兵力を移すに違いありません。呉が荊州を攻めるのはその時です」と言った。

メモ

●獅子吼(ししく)
大いに雄弁を振るうこと。

●宿痾(しゅくあ)
持病。

●寸毫(すんごう)
ほんのわずか。

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