内容
関羽(かんう)の腕の手術を終えた華陀(かだ)は、次の日、関羽を見舞いに来た。
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「腕の痛みもなく、昨夜は熟睡できた」関羽が言うと、「怒気(どき)を発することは禁物です」と華陀は告げ、百金も手に取らずに小舟に乗って、江上へ去って行った。
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魏(ぎ)王宮は、樊川(はんせん)地方の敗戦、龐徳(ほうとく)が斬られ、于禁(うきん)が投降などが早馬で知らされ、大会議を開く。
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「関羽の勢いが伸びるのを嫌うのは呉(ご)の孫権(そんけん)です。関羽の後ろを突けといえば、孫権はかならず呼応するに違いありません」司馬懿(しばい)は言った。
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曹操は徐晃(じょこう)を大将に選び、兵五万を与えて陽陵坡(ようりょうは)に向かわせる。これは、呉軍が関羽を攻めれば、徐晃も関羽を攻めるという意思表示である。
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呉の主都建業(けんぎょう)では、魏の急使が曹操からの申し出を伝えている。
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建業城中でも大会議が開かれ、そこに、上流陸口(りっこう)の守備をしていた呂蒙(りょもう)が戻ってきた。
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呂蒙は「荊州をとれ」と主張。その策も述べる。
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孫権は呂蒙に全権を与える。
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呂蒙は再び速船(はやぶね)で陸口へ戻り、荊州方面へ隠密を放つ。
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隠密からの報告によると、要所要所に烽火台(のろしだい)を築いており、変があれば、つなぎ烽火によって連絡がとれ、すぐに兵を動かせるしくみになっているという。
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これを知った呂蒙は寝込んでしまい、その噂を聞いた孫権は陸遜(りくそん)に呂蒙の容体を確認するように命じる。
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陸遜は呂蒙に会うと、「呂蒙殿は大病と称して建業に帰り、名もない将を代わりに置いて関羽を油断させましょう」と言った。
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