この一戦(このいっせん) 三国志 出師の巻

・蜀と呉、ぶつかる

あらすじ

蜀の大軍は、水路の軍船は巫口(ふこう)、陸路の軍は秭帰(しき)まで進出していた。
呉の孫権は大勝負を覚悟した。
呉軍五万は、宜都(ぎと)へ急ぎ、朱然は右都督、孫権の甥である孫桓(そんかん)は左都督として、各々二万五千を両翼に分けて、蜀に対峙した。
対する蜀軍は、関羽の子関興(かんこう)と張飛の子張苞(ちょうほう)が、呉軍の中に飛び込んだ。
結果は、蜀軍の大勝利となった。
呉の孫桓は陣を後退させた。陸軍は破れても、近き江岸にある水軍はまだ無傷であった。

ある日、呉の警備隊が、江岸にいた蜀の一兵を捕らえた。
その蜀兵は、今夜、孫桓の陣へ火を放って、夜討ちをかけるというのだ。
都督の朱然(しゅぜん)は、そのことを、孫桓の陣へ知らせるため、すぐに使いを出した。
そして崔禹は孫桓を救援するため、一万の兵を率いて向かった。
孫桓の陣へ先に向かったその使いは、途中で蜀兵に斬られてしまった。江岸で捕らえられた蜀兵は、蜀の計略のひとつであり、使いが出るのを察して待ち伏せていたのであった。

二更の頃、孫桓の陣に、火があがった。
崔禹の軍が、孫桓の陣へ向かっている途中、待ち伏せしていた蜀の張苞、関興の軍に襲撃された。
崔禹の軍は大打撃を受け、崔禹は首を刎ねられた。
呉の都督の朱然は、水軍を五、六十里ほど下げ、陣営を焼かれた孫桓は、夷陵(いりょう)の城へ逃げ走った。

メモ

●慚愧(ざんき)
自分の行為を反省して恥じること。

●周章(しゅうしょう)
あわてふためくこと。

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