あらまし
● 曹操、魏王となる
都府の百官は曹操(そうそう)を魏王の位に推挙しようとしたので、尚書(しょうしょ)の崔琰(さいえん)は諫めた。すると百官は、「荀彧(じゅんいく)や荀攸(じゅんゆう)みたいな終りを遂げたいのか」と怒り、大喧嘩になった。このことが曹操の耳に入り、崔琰を獄へ放り込まれた。獄の中から崔琰は、「逆賊は曹操なり」と大声で叫び散らすため、廷尉(ていい)の官職にある者が、崔琰を棒で打ちたたき、命を奪った。
建安(けんあん)二十一年五月、官吏軍臣たちは曹操を魏王とする旨を帝に上奏して詔(みことのり)を仰いだ。帝はやむなく、鍾繇(しょうよう)に詔書の起草を命じ、曹操を魏王とした。
● 曹丕、世継ぎとなる
曹操には四人の子がいた。みな男子で、曹丕(そうひ)、曹彰(そうしょう)、曹植(そうしょく)、曹熊(そうゆう)といった。ある時、曹操は賈詡(かく)を呼び、「世継ぎには曹丕と曹植とどちらがよいか」と尋ねた。賈詡は、「さきに亡んだ袁紹(えんしょう)や劉表(りゅうひょう)がよいお手本ではありませんか」と答えた。曹操は大いに笑った。その後まもなく、嫡子曹丕が世継ぎとなった。
● 左慈、登場
その年の冬十月、鄴都(ぎょうと)に魏王宮が完成し、それを祝う宴を開くため、府から諸州へ「特色ある土産を献上せよ」と布達した。呉は温州(うんしゅう)の柑子(こうじ)四十荷を、人夫に背負わせて都へ送った。人夫たちは、山中で荷をおろして休憩していたところ、老人がやってきたので、人夫のひとりが「爺さん。助けてくれ。これからまだ千里もあるんだ」と冗談を言った。老人は、ひとりの人夫の荷物を背負って、ほかの人夫たちへ、「おぬしらの荷物も、みなわしが背負ってやる。さあ、ついてこい」と言って、走りだした。老人に荷物を奪われては大変だと、人夫たちは荷物を背負って、老人のあとに続いたが、人夫たちが背負う荷は、少しも重さを感じないので、不思議に思った。別れ際に、人夫の奉行が老人に素性をたずねると、「わしは魏王曹操とは同郷の友で、左慈(さじ)といい、道号は烏角(うかく)先生とも呼ばれておる」と老人は言った。
人夫たちは鄴都の魏王宮に着いた。曹操は、届いた温州柑子を盆からひとつを取って割った。柑子の実は空っぽであった。荷を運んできた奉行を問いただすと、途中で左慈という奇異な老人に出会ったことを話した。
曹操に会いたいと左慈が訪ねてきた。曹操は。柑子のことで左慈を責めると、左慈は柑子を手に取り、割ってみせた。果肉はいっぱいであった。曹操は左慈に毒味を命じた。左慈は笑って、「酒と肉をいただきたい。柑子は口直しに後でいただきます」と答えた。曹操は、酒五斗に、大きな羊の丸焼きを与えると、左慈はぺろんと平げて、まだ物足らない顔をした。左慈は言った。「天下は劉備にまかせればよいのです。大王がおられるよりも、万民、朝廷、ともにご安心になりましょう」曹操は左慈を獄へ放り込んだ。
数十名の獄卒はかわるがわるに左慈を拷問した。しかし、獄中から聞えてくるのは、左慈の笑い声だった。一切の水と食べ物を禁じたが、七日たっても十日経っても、左慈は元気であった。
魏王宮落成の大宴の日が来た。そこに突然、高下駄をはいて、藤の花を冠にさした左慈が現れる。曹操は左慈を困らしてやろうと考え、そこの大花瓶に牡丹の花を咲かせてみよと命じた。左慈は花瓶に向けて口から水を噴くと、牡丹の大輪が咲きだした。
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