高楼弾琴(こうろうだんきん) 三国志 五丈原の巻

・魏軍、街亭を獲る

あらすじ

秦嶺(しんれい)の西に街亭(がいてい)という高地がある。
この場所は漢中の咽喉(のど)にあたるため、司馬懿はここを突く作戦にでた。

一方、孟達死すとの知らせを聞いた諸葛亮は、「司馬懿はつぎに街亭を狙う。誰かに守らせねばならん」と諸将を見まわした。
すると馬謖(ばしょく)が名乗りでて、「失敗すれば軍罰を受ける」といった。
諸葛亮はそれを認め、副将に王平をつけ、街亭付近の地図をひろげて、策をふたりに説いた。

馬謖と王平は二万余りの兵を率いて街亭へ急いだ。

諸葛亮は安心しきれないのか、高翔(こうしょう)を街亭の東北にある列柳城(れつりゅうじょう)に陣を敷かせ、魏延を後詰として出発させ、趙雲、鄧芝(とうし)の二軍を箕谷(きこく)方面へ急派し、街亭にいる馬謖を、いつで支援できる体制を整えた。

馬謖の軍が街亭に着くと、地勢を視察して、山上へ陣を敷くよう命じた。
諸葛亮の策は、山の細道の総口を遮断することであったが、山上に陣を敷くとそれができない。
副将王平は大反対したが、馬謖は聞く耳を持たない。

結局、馬謖は山上へ陣を敷き、王平は五千の兵を率いて麓に陣を敷いた。
王平は諸葛亮の命を仰ぐため、二人の布陣図を書き、早馬を出した。

司馬懿は、十騎ほど連れて、前線を偵察し、「蜀の大将は山を守っている」と歓喜した。
さっそく、張郃の軍を王平の軍にあたらせ、馬謖の軍との連携を切らせた。

司馬懿自身は魏の大軍を率いて、馬謖軍がいる街亭山を二重に取り囲んだ。

功を急ぐ馬謖は、兵を率いて、山を駆け下り、魏軍とぶつかった。
序戦は馬謖軍の優勢であったが、馬謖軍の帰路は山道を登るため、魏軍の追撃にやられた。

山上に戻った馬謖は、山の下にある水源を魏軍に取られたことを知った。
水源の奪回を試みたが、そのたびに負けを繰り返した。

「水を汲みにゆく」と言って山を降りた蜀兵は、みなそのまま魏へ投降していった。

魏軍は総攻撃を開始したため、馬謖の全軍は西南の一路へ駆け下った。
司馬懿はわざと道を開き、馬謖軍を包み込むように囲んだ。

街亭の後詰にあった魏延(ぎえん)と高翔(こうしょう)は、馬謖を救いに向かったが、馬謖軍は、十数日のあいだ、水源を断たれ、兵馬ともに疲れはてており、戦力にはならず、ただ逃げるばかりで、魏軍の餌食となっていた。

その頃、王平の急使が運んだ街亭の布陣の図を一目見た諸葛亮は、「馬謖のばか者」と悔しがった。
そのあと、早馬が続き、街亭が敗れたこと、列柳城が魏軍に獲られたことを知らせた。

諸葛亮は、立て続けに命を出した。
関興と張苞(ちょうほう)は、陽平関へ入るように。
張翼は、剣閣(けんかく)の道なき山に道を作るように。
馬岱(ばたい)と姜維(きょうい)には殿軍(しんがり)を。
諸葛亮自身は五千騎を率いて、西城県へ向かった。

西城に着き、兵糧を漢中へ移送していると、司馬懿率いる十五万の大軍が、西城に迫っているとの知らせが入った。

諸葛亮は城兵に、四門を開け、門には水を打ち、貴人を迎えるがごとく清掃せよと命じた。
そして、みだりに騒ぐ者は斬ると加えた。
命じ終わると、新しい衣に着替え、琴を用意させ、櫓の一番上へ登った。

魏軍の先陣が、諸葛亮のいる小城に詰めてきた。
高殿をみると、諸葛亮が琴を弾いている。
目の前の城門は八文字に解放されており、きれいに清掃されている。門を守る兵は居眠っている様子である。

知らせを受けた司馬懿は、その様子を見て身を震わせ、退却を命じた。
諸葛亮の罠だと考えたのである。

魏軍が退却し、姿が見えなくなって、諸葛亮は言った。「もし逃げ走っていたら、今頃は司馬懿に生け捕られていただろう」と。
諸葛亮はすぐに漢中へ移った。

漢中に入った諸葛亮は、箕谷(きこく)の山中にいる趙雲(ちょううん)と鄧芝(とうし)へ漢中に戻るよう伝令を出した。
趙雲と鄧芝以外の蜀軍はみな漢中に退いていた。
趙雲は、鄧芝の軍を先に行かせ、魏軍の攻めを蹴散らしながら漢中へ戻った。

あとになって、司馬懿は地元の百姓から、西城を攻めようとしていたとき、諸葛亮のもとには兵二千ほどしかいなかったことを知り、悔しがった。

司馬懿は、各所要害の守りを固めたのち、長安へ向かった。

メモ

●蓋世(がいせい)
世をおおいつくすほどの手腕や気力があること。

●かたわら
そば。

●須臾(しゅゆ)
しばらくの間。

●輜重(しちょう)
軍隊が必要とする兵器・糧食・被服の運搬・監視にあたる軍人。

●高楼(こうろう)
たかどの。

●天佑(てんゆう)
天のたすけ。

●喞つ(かこつ)
不平を言ってなげく。

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