内容
関平(かんぺい)も呉(ご)軍に生け捕られ、呉侯孫権(そんけん)のもとへ送られた。
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目の前にいる生け捕った関羽に、孫権は降伏するように諭す。
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「桃園の誓いあり。降伏せよとは笑止。はや首を打て」と言ったきり、関羽は口をつぐむ。
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孫権は一代の英雄である関羽を惜しんでいたが、主簿(しゅぼ)の左咸(さかん)は、関羽を始末しなければ後に呉の大害となると意見する。
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惜しむ心を断ち切るかのように、「関羽を斬れ」と孫権は叫ぶ。
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建安(けんあん)二十四年十月。関羽と養子関平はその首を打ち落とされた。
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孫権は褒美として、関羽を生け捕った馬忠(ばちゅう)に関羽の愛馬赤兎(せきと)を、潘璋(はんしょう)に関羽の青龍の偃月刀(えんげつとう)を与える。
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赤兎馬は、関羽が命を落としたその日から草を食べなくなり、麦城(ばくじょう)のほうを向いていななくのみである。
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麦城では百余人が城を死守していたが、その後、呉軍が迫ると王甫(おうほ)も周倉(しゅうそう)は自害。
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荊州(けいしゅう)占領後、しばらくして、呉将呂蒙(りょもう)は病により命を落とす。その原因は、関羽の生霊がとりついたためだという話もある。
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