内容
秋七月、魏(ぎ)の曹真(そうしん)は病を治し、朝廷に姿を見せ、諸葛亮(しょかつりょう)が病であるうちに蜀(しょく)を攻めるべしと進言。
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魏帝は侍中(じちゅう)劉曄(りゅうよう)に相談すると、曹真と同じ考えだった。
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呉(ご)の動きを観察していた司馬懿(しばい)が荊州(けいしゅう)から戻り、司馬懿も蜀を攻めるべしとの考えだった。
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十月(とつき)の後、魏は四十万の軍で蜀境の剣門関(けんもんかん)へ押し寄せる。この軍は、大都督に曹真、副都督に司馬懿、軍師に劉曄(りゅうよう)とした。
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病を回復した諸葛亮は、魏が動いたことを知り、王平(おうへい)と張嶷(ちょうぎ)におのおの千騎を与え、魏軍にあたれと命じる。
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王平と張嶷の顔が曇る。自軍二千騎に対して魏軍四十万を相手にするのは、討たれるのを覚悟しなければならないからだ。
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諸葛亮は王平と張嶷に説明する。天文をみると、月中に大雨があるので、魏の軍馬は進軍できないというのだ。
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王平と張嶷は陳倉道(ちんそうどう)へ急ぎ、高地に陣を置いて、魏軍を待つ。
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陳倉の道に入った魏軍であるが、司馬懿が近いうちに大雨が来ると言い出したため、進軍を中止。
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大雨が三十余日続き、魏軍には病人溺死者が続出。食糧は底をつく。
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魏帝の命により、魏軍退却。
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諸葛亮は主力の軍を赤坡(せきは)まで進める。魏軍の退却を知るが、魏軍を追わなかった。
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