南蛮行(なんばんこう) 三国志 出師の巻

・諸葛亮、益州南部へ向かう

あらすじ

淮河(わいが)から逃げ帰った魏王曹丕(そうひ)。
魏の損害は、かつての赤壁の大敗にも劣らないものであった。
呉の大勝である。
都督徐盛は、孫権の甥孫韶(そんしょう)を軍功第一と上表したが、孫権は、「魏を油断させて、淮河に誘い出した徐盛の策があってのもの」と徐盛を軍功第一とした。

翌年、蜀の建興三年春、南蛮(なんばん)国の王孟獲(もうかく)が、建寧(けんねい)、牂牁(しょうか)、越雋(えっしゅん)の諸郡と協力し、辺境を犯しており、永昌郡の太守王伉(おうこう)だけが、蜀に対する忠義を守り、対抗しているが、いつ落ちてもおかしくない状況だと知らせが蜀に届いた。
諸葛亮は、すぐに総軍五十余万をそろえ、みずから益州南部へ向かった

建寧(けんねい)の太守雍闓(ようがい)は反蜀の姿勢で、南蛮国の孟獲(もうかく)とかたく結びついている。
左右には越雋郡(えっしゅんぐん)の高定(こうてい)と牂牁郡(しょうかぐん)の朱褒(しゅほう)が、戦線を形成していた。

まずは、高定(こうてい)の部下鄂煥(がっかん)が、六万の兵で、蜀軍にあたった。
七日目、鄂煥は蜀軍に生け捕りにされた。
諸葛亮は鄂煥の縄を解き、放した。

翌日、雍闓は高定の軍とともに、蜀の陣に、戦いを挑んだが、諸葛亮は出撃を命じず、静かにしていた。
八日たったころ、蜀軍を弱くみた雍闓は、大挙して蜀の陣営を攻めた。
諸葛亮の思いどおりの展開となり、蜀軍は大量の捕虜を得た。
捕虜は、雍闓の兵と高定の兵に分けて、収容所に押し込められた。
収容所にあるうわさが届いた。
高定はもともと、蜀に忠義だから、その兵は解放するが、雍闓の兵は殺すというものである。

数日後、雍闓(ようがい)の兵がいる収容所を開き、誰の部下かと諸葛亮は問うた。
皆が高定の兵だと答える。
諸葛亮は皆の罠を解いて、解放した。

次の日、高定の兵がいる収容所を開き、皆の縄を解き、酒をふるまった。
諸葛亮は、雍闓が、自身の安全と引き換えに、高定の首を差し出すと言ってきたことを話し、高定は雍闓に騙されていると言った。
高定の兵は解放され、自分たちの陣営に戻ると、諸葛亮の寛大さを褒めたたえ、雍闓には油断するなと高定に忠告した。

高定は、雍闓の陣中へ人をやった。
そこでは、雍闓の兵が敵である諸葛亮を褒めたたえていた。
つぎに腹心の男を、諸葛亮の陣中に潜らせた。
運悪く、その男は蜀兵に捕まった。
諸葛亮はその男を見ると、雍闓の使いに来た男と勘違いをし、雍闓にあてた書簡を渡して、解放した。
男は、高定にその書簡を見せた。
その書簡には、高定・朱褒の首を取ってくれば、恩賞を贈るとあった。

高定は鄂煥(がっかん)に相談し、陣中に宴を設けて、雍闓を招くことにした。
しかし雍闓は、軍議を口実にやってこなかった。
雍闓に二心ありと確信した高定は、夜襲を決行した。

夜明けとともに、高定は諸葛亮の陣へ行き、雍闓の首をもって、降伏した。
しかし諸葛亮は「斬り捨てろ」と命じた。
朱褒(しゅほう)から諸葛亮に宛てた書簡に、高定と雍闓は固い結束があるゆえ、油断するなとあったからだ。
朱褒は、高定を売って、己の安全を得ようとしたことを知った高定は、朱褒の首を討ってからであれば、死んでも本望だと言った。

三日後、高定は朱褒の首をもって、諸葛亮の前に出た。
ほどなくして、高定は益州三郡の太守に封ぜられた。

メモ

●鹵獲(ろかく)
戦場において勝利を得た部隊が敗れた敵から兵器などを獲得すること。

●刎頸(ふんけい)
首を斬ること。

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