日輪(にちりん) 図南の巻

内容

孫権(そんけん)の妹でもある劉備夫人は呉(ご)の都へ帰った。
母の病気を心配する妹に対して、孫権は阿斗がいないことが不満だった。
妹を母のいる後宮へ追い立て、孫権は政閣へ向かった。

孫権の妹が呉へ戻ったことにより、縁故関係はなくなった。
孫権は荊州攻めの策を群臣に求めた。

議事の半ばに、曹操(そうそう)四十万の大軍が南下の準備をしている、と報告が入った。
また、内務吏から、重臣張紘(ちょうこう)が、今朝、息を引きとった、と告げ、遺言を孫権へ渡した。
遺言には、建業(けんぎょう)へ遷都するように、と書かれていた。
孫権は直ちに居府を移し、呂蒙(りょもう)の意見を入れて、濡須(じゅしゅ)の水流の口から一帯にかけて、堤(つつみ)を築いた。

一方、曹操の四十万の大軍は、許都を発つ準備ができていた。
長史董昭(とうしょう)は曹操に、「この際、魏公(ぎこう)の位に登って九錫(きゅうしゃく)を加えられては如何ですか」とすすめた。
これは皇帝の権威と同格であることを意味した。
曹操は朝廷にゆるしを求め、以降、魏公と称し、九錫の儀仗(ぎじょう)に護られた。

「功いよいよ高きほど、退謙(たいけん)をお示しあるべきです」荀彧(じゅんいく)は曹操を諫めた。
荀彧の諫言を聞くと、曹操は席を立ち、去っていった。
以後、荀彧は病と称し、自邸に引きこもった。

建安(けんあん)十七年十月。曹操軍が都を発つときになり、曹操は荀彧を呼び出しだが、荀彧は参加を辞退した。

曹操は荀彧の見舞いとして、食物の入っている一器を贈った。
しかし器の中には何も入っていなかった。
その夜。荀彧は毒を飲んで命を絶った。

曹操軍は、濡須(じゅしゅ)の堤を前にして、二百余里にわたる陣を敷き、曹操は敵呉軍を視察するために山を登った。
視察を終えて山を降りかけたとき、石砲がとどろいた。
山の麓近くの入り江から呉軍が攻めてきた。
この日の夜には、呉軍の夜襲にもあい、おびただしい死者を捨てて、曹操軍は五十里ほど陣を退いた。

数日後。曹操が江の畔を歩いていると、孫権を先頭に呉軍が攻めてきた。
「人中第一の悪人曹操、首をさしのべよ」孫権は叫ぶと、曹操は激怒した。
孫権の挑発にのって戦った曹操軍は、大敗に帰した。

翌建安十八年二月に入ると、大雨が続いた。
孫権から一書が曹操に届いた。
書簡の裏をみると、
足下不死(ソッカシナズンバ)
孤不得安(ワレヤスキヲエズ)
と書いてあった。曹操は苦笑した。
次の日。曹操は軍を引き上げた。

呉軍も曹操軍の撤退を見て、建業(けんぎょう)へ帰った。
曹操軍の撤退に、孫権は自信を得た。

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