日輪(にちりん) 図南の巻

あらすじ

孫権の妹でもある劉備の夫人は、呉の都へ帰った。

「周善は? 阿斗は?」と、孫権は問うた。

「周善は斬られ、阿斗は取り上げられました。それよりすぐ母君へ会わせてください」

「母公の後宮へ行って会うがよい。とてもお達者だ」

不審がる妹を後宮へ追い立て、孫権はすぐに群臣を集め、宣言した。「予の妹は、玄徳の留守にその家臣どもから追われ、今日、呉へ立ち帰った。呉と荊州とは何らの縁故もないことになった。即時、大軍を起こして荊州を収めようと思う」

その時、江北の諜報が届いた。「曹操軍四十万が南下」とあった。

そこへ今度は内務吏から「重臣の張紘ちょうこうが、今朝、息を引き取りました」と報告があった。そして遺書を差し出した。

遺書には、生涯の君恩の大を謝してあった。そして建業けんぎょうへの遷都をすすめていた。

孫権は直ちに遷都を行い、白頭城はくとうじょうを築いた。

また呂蒙りょもうのすすめにより、曹操の南下に備えて、濡須じゅしゅの水流の口から一帯にかけて、堤を築いた。 

一方、曹操は四十万の軍を大編成し、許都を出発しようとすると、重臣董昭とうしょうから「魏公の位に登って九錫を加えられていかがですか」とすすめられた。

曹操は、すぐその気になって、朝廷に許しを求めた。もちろん誰も反対はしない。曹操は魏公と称し、九錫の儀仗に護られる身となった。

荀彧は曹操に苦言を呈した。「漢室への忠誠をかざしながら、結局、あなたご自身の欲望にすぎなかった。実につまらぬ人生の落ちではありませんか」

曹操は席を立ち、「董昭を呼べ」と近侍へ命じ、去っていった。

それ以来、荀彧は病と称して自邸に引き籠ってしまった。

建安十七年冬十月、曹操軍が南征のために都をでることになったが、曹操からの呼び出しにも「このたびはお供できません」と参加を辞退した。

ついに使者が来て、「魏公からのお見舞いである」と、食物の入っている一器を荀彧の前に贈った。

器の上には「曹操みずから之をふうす」という紙がかけてあった。

荀彧が開くと器の中には何も入っていなかった。

「お気持ちは分かった」と、荀彧はその日の夜、自ら毒を飲んで命を絶った。

南征の途中で曹操は荀彧の自害を知った。「不憫なことをした」と言ったきり、何も言わなくなった。

曹操軍は濡須の堤の前まできた。そこに陣を敷いた。

曹操は山の上へ登り、呉の陣を確認し終わり、山を降りかけた時である。

山のふもと近くの江から無数の呉の小艇が堤をこえて現れた。いきなり魏の中軍を攻めてきたのである。

曹操は陣頭にでて、乱れ立つ味方をととのえた。

彼方の堤の上に孫権があらわれ、左右にいた韓当かんとう周泰しゅうたいが曹操のうしろへ迫った。

曹操軍も鼓を鳴らして、孫権のうしろを突き崩した。

魏の許褚きょちょが韓当と周泰を退け、曹操を救出し、中軍へ戻った。

その日の夜、呉が魏の陣へ夜襲を浴びせた。

不意をつかれた魏軍は陣を五十里ほど退かせた。

その後も魏軍は呉軍と戦うが、連戦連敗を重ねた。

年が明け、建安十八年二月に入ると大雨がつづき、食糧不足の問題も起こった。

そんななか、孫権から曹操のもとに書簡が届いた。停戦をうながす内容で、書簡の裏には、「足下不死そっかしなずんば  孤不得安われやすきをえず」と書いてあった。

曹操は苦笑いをして、あくる日、軍へ引き揚げを命令した。

魏軍が退却するのをみて、呉軍も秣陵まつりょうの建業へ帰った。

今回の魏との戦いで孫権はすっかり自信を得た。「曹操すら恐れて帰った。つぎは劉備の荊州攻めだ」と部下たちに意見を求めた。

宿老の張昭は「まず蜀の劉璋と漢中の張魯を味方にして、劉備を苦しませたあと、荊州を獲るのが一番の良策でしょう」と言った。

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