烽火台(のろしだい) 三国志(八)図南の巻

・関羽、荊州を出る

あらすじ

関羽を取り込んで、呉と蜀で魏に対抗するという諸葛瑾の策は、失敗に終わった。
諸葛瑾はありのままを孫権に報告をすると、孫権は群臣を集め、荊州を攻めると宣言した。
参謀の歩隲(ほしつ)は、それに反対した。魏が荊州を攻めることを条件に、曹操の望みどおり同盟を結ぶのがよいというのだ。
孫権は歩隲の策を認め、魏に使者を送った。
曹操は、呉の申し出を受け入れ、満寵(まんちょう)を曹仁のいる樊城(はんじょう)へ派遣した。

一方、蜀では、荊州から魏の曹仁が荊州を攻めてきたとの報告を受け、諸葛亮は費詩(ひし)を荊州へ送った。
費詩は関羽に漢中王のお言葉として「ただ守るだけでなく、敵の樊城も攻めとられよ」と伝えた。

関羽は全軍を率いて荊州を出た。
曹仁軍と関羽軍は、襄陽郊外でぶつかった。
曹仁軍は大敗し、襄陽を越えて樊城(はんじょう)へ退いた。

関羽軍は襄陽に入った。
城下の民衆は、関羽軍を歓迎した。

司馬の王甫(おうほ)は関羽に注意をうながした。陸口(りっこう)にいる呉の呂蒙(りょもう)が荊州を攻めてきたら、防ぎようがないというのだ。
関羽も同じ心配をしていたた。
王甫は要所要所に見張り所として烽火台(のろしだい)を築くのがよいと言ったので、関羽はすぐに取りかかるよう、王甫に命じた。

襄陽に戻ってきた王甫は、工事は順調に進んでいるが、人の問題があるという。江陵方面の守備にいる糜芳(びほう)と傅士仁(ふしじん)、荊州の留守を預かっている潘濬(はんしゅん)は頼りがないというのだ。
関羽は、自らが選んだ人選であったため、王甫の指摘を気にしなかった。

関羽軍は曹仁が逃げた樊城へ向かった。

メモ

●依怙(えこ)
不公平。

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