乱兆(らんちょう) 桃園の巻

■あらまし
中平(ちゅうへい)六年の夏、霊帝(れいてい)は重い病にかかった。

霊帝は何進(かしん)を呼び、何進は霊帝を慰めた。

時折、十常侍(じょうじ)の蹇碩(けんせき)が「協皇子(きょうおうじ)を皇太子に立てたければ何后(かこう)の兄である何進の命を奪うこと」と霊帝に進言していた。

霊帝は決心し、「急ぎ参内せよ」と何進に勅令を発した。

きのう参内したばかりの何進は家臣に探らせた。すると蹇碩がなにか謀っている様子がうかがえた。

何進は参内せずに、[袁紹(えんしょう)や曹操(そうそう)ら]諸大臣を私館へ招いて意見を求めた。そこに非公式であるが霊帝崩御の知らせが入った。

[劉備の方はというと]故郷の涿県(たくけん)から戻り、代州(だいしゅう)の劉恢(りゅうかい)のもとに身を寄せていた。

劉恢の紹介により、劉備は関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)を連れ、幽州(ゆうしゅう)の劉虞(りゅうぐ)の軍に合流。魚陽の乱の平定に貢献した。

劉虞(りゅうぐ)は劉備の勲功を朝廷へ報告。劉備は平原県(へいげんけん)の令(れい)となった。

[何進の方に戻すと]禁門の武官潘隠(はんいん)が「十常侍の輩は帝の死を隠してあなたを宮中に呼び、命を奪ってから協皇子を立てる計画のようです」と耳打ちした。

そこへ宮中からの使者が「天子さまが御危篤のため、いそいで参内すべし」と伝えにきた。

宮中からの使者は斬られ、袁紹は御林(ぎょりん)の近衛兵五千を率いて戒厳令を敷き、何進は一族や大臣三十余名を伴い宮門に入った。

霊帝の柩(ひつぎ)のまえに弁太子(べんたいし)を立たせた何進は新帝ご即位を宣言。百官に万歳を唱えさせた。

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