秋風陣(しゅうふうじん) 桃園の巻

あらまし

朱雋(しゅしゅん)が河南(かなん)へ移駐していたため、劉備(りゅうび)も河南へ向かった。

河南へ向かう途中、劉備は故郷にいる母を憶い出し、手紙を書いた。兵たちにも勧め、手紙を故郷へ送った。

劉備は朱雋に合流。朱雋の命により、劉備は高地の山谷の奥に陣取る張宝(ちょうほう)を攻めたが、張宝の呪に敗れた。

次の日、朱雋の兵の約半分を峡門の正面へ置き、劉備・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)とつわものの兵たちは北方の絶壁をよじ登った。

関羽と張飛は二手に分かれ、張宝の本拠地を攻めた。

山中から雄叫びが聞こえたため、朱雋の兵に対抗していた張宝は本拠地へ向かった。

沢の密林に隠れていた劉備は張宝のこめかみに矢を放ち、張宝の軍を打ち破った。

「張梁(ちょうりょう)が陽城(ようじょう)にたて籠っている」との伝令が来た。朱雋の大軍は陽城を包囲し攻めた。しかし城壁の一角もとれなかった。

曲陽(きょくよう)の方面では、董卓(とうたく)と皇甫嵩(こうほすう)の両軍が賊の総帥張角(ちょうかく)の軍と戦っていた。陣中で張角が病没したのをきっかけに総攻撃に出て、張角の軍は壊滅した。その功績により、皇甫嵩らは恩賞の令を受けた。

そのことを遠方からの使いから聞いた朱雋(しゅしゅん)は攻撃に次ぐ攻撃を命じ、敵に眠る間を与えなかった。

陽城の中に厳政(げんせい)という男いた。厳政は朱雋に内通し、賊将張梁の首を獲って降伏した。

朱雋軍の六万は、黄巾の残党孫仲(そんちゅう)・韓忠(かんちゅう)・趙弘(ちょうこう)がたて籠る宛城(えんじょう)へ向かい、包囲した。

韓忠は降伏を申し出るが、朱雋は拒否をした。劣勢になれば憐れみを乞う態度に激怒したからだ。

劉備の進言により、朱雋と劉備の軍は東南(たつみ)の一門だけ開き、三方から攻め立てた。朱雋は騎を飛ばし、韓忠を鉄弓で射とめた。

趙弘と孫仲は韓忠の仇を討つため、逆襲にでた。朱雋と官軍は十里も後ろへ退却した。

その日の黄昏、孫堅(そんけん)が朱雋・劉備に合流し、翌日、宛城を攻めた。孫堅は趙弘を斬り捨て、劉備は敗走する孫仲を射抜いた。宛城は落城し、南陽(なんよう)の諸郡も平定した。

朱儁・孫堅・劉備の軍は洛陽(らくよう)へ帰った。洛陽は七日七夜のあいだ祝った。しかし劉備と義軍は祝いのなかにおらず、門番の役を命じられていた。正規の官軍でなく、官職もないためだ。

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