藤花の冠(とうかのかんむり) 三国志(八)図南の巻

・左慈、術をつかう

あらすじ

大花瓶に牡丹の花が咲いたことに、千客は、みな眼をこすり合った。そこへ、魚の鱠(なます)が運ばれてきた。左慈はそれを見て、なぜ松江(しょうこう)の鱸(すずき)ではないのかと尋ねた。生きた鱸を千里の松江から持ってこられるわけがないと、曹操は言い訳をした。左慈は釣竿を求め、
欄(らん)の外にある池へ糸をたれた。すると、たちまち、大きな鱸(すずき)が何尾も釣りあげた。池の中の鱸は予が池に放したものだと、曹操が言うと、松江の鱸は、エラが四つあり、ほかの鱸は二つしかない、と左慈は言った。左慈の釣った鱸を調べると、みなエラが四枚あった。曹操は、どうにかして左慈を困らせたくて、「松江の鱸をなますにして食する時には、かならず紫芽(しげ)の薑(はじかみ ショウガ科の多年草)をツマに添えるという。薑はあるか」左慈は、左の袂へ手を入れ、薑を黄金の盆へ盛った。曹操に近侍が盆を捧げると、薑は一巻の書物に変っていた。その書物は「孟徳新書」と書いてある。「誰が書いた書物か」と尋ねると、「わかりませんが、大したものではありますまい」と笑って答えた。曹操は手に取り、なかを開いて見ると、自分の書いたものと一字一句も違わなかった。左慈は、曹操の前へ進み、不老の千載酒(せんざいしゅ)と言って、盃の半分を自分が飲んだ後、曹操に差し出した。曹操が、その酒をふくむと、水っぽくて、飲めたものではない。曹操は怒りを左慈にぶつけようとした瞬間、左慈は手をのばして、盃を奪い取り、堂の天井へ放り上げた。盃は一羽の白鳩となり、殿中を飛びまわった。酒をこぼし、花をたおし、客の肩に、顔に、まとわりついた。そして、いつの間にか、左慈は消えていた。それに気づいた曹操は、すぐに捕らえてこいと命じた。

曹操の命を受けた許褚(きょちょ)は、万一のために、親衛軍中の屈強五百騎を率いて追いかけた。片足を引きずりながら行く左慈を見つけたが、馬に鞭打っても、左慈に追いつくことはできない。許褚は、部下の五百騎に、弓で射るように命じた。五百の矢は一斉に左慈に向かったが、いつの間にか左慈の姿は消えており、羊の群れだけがそこにいた。羊の中に左慈は隠れていると思い、許褚は数百の羊を、一匹のこらず打ち殺した。結局、左慈は見つからず、引き返していると、一人の童子が泣いていた。許褚が声をかけると、童子は「おらの飼っている羊を、みな殺しやがって。ばかやろう」と言って、逃げだした。一人の部下は、あの童子も怪しいと、矢をうしろから射た。いくら射っても、矢は地に落ちてしまう。その間に、童子はわが家へとびこんで、大泣きしていた。

つぎの日。童子の親が、王宮へ謝まりにきた。息子がお城の大将にむかって、悪口をたたいて逃げたことに対するお詫びであったが、よく聞くと、殺されたはずの羊は、牧場で群れ遊んでいるという。今朝、曹操は、許褚からの報告を聞いていたので、この奇怪な話にぞっとした。

曹操は、王宮の画工を呼び、左慈の肖像を画かせ、各地に数千の肖像画を配布した。三日もするうちに、各県郡から次々と左慈が捕らえられ。王宮の獄には、五百余人の左慈が収監された。捕らえられた者は、誰を見ても肖像画のとおりの左慈であった。いちいち調べるのもわずらわしいと、曹操は、城南の練兵場に、祭壇を設置し、五百余人の左慈の首を、一斉に、刎ねた。すると、屍(かばね)の山から精気が立ち上り、空中に、ひとりの左慈が現れた。左慈は白い鶴に乗っており、魏王宮の上を、悠々と飛んでいた。曹操は、空中にいる左慈を射よと命じ、弓鉄砲を撃ちかけたとき、たちまち狂風が吹き起こり、人々は眼をふさいだ。そのあいだに、練兵場に積みあげられた五百余の屍から、ひとかたまりの精気が立ち上り、王宮の内へ流れ入ると、左慈の姿となった五百余体の妖人が、約一刻のあいだ、舞い狂っていた。魏の諸大将は、みな震えあがり、曹操は、後閣に狂風を避けたが、その夜から曹操は、近侍の者に、体の不調を訴えた。

メモ

●薑(はじかみ)
ショウガ科の多年草

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