内容
曹操は旧袁紹(えんしょう)治下の全土を手に入れた。
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袁紹の息子袁煕(えんき)と袁尚(えんしょう)は、遼西(りょうせい)の烏丸(うがん)にいた。
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曹操は遼西(りょうせい)、遼東(りょうとう)の地を治めるため、大軍を擁して進んだ。
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易州(えきしゅう)まで来ると、曹操配下の郭嘉(かくか)が風土病にかかり、行軍についていけなくなった。
「軽騎の精猛のみを率いて、速度を三倍にし、敵の不意を衝きなさい」郭嘉は曹操に言った。
曹操は兵を選抜し、袁紹の部下だった田疇(でんちゅう)を道案内にして、進んだ。
残りの軍は郭嘉が預かり、曹操を待った。
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曹操軍は大将冒頓(ぼくとつ)のいる柳城(りゅうじょう)を攻撃し、冒頓を斬って、柳城を占拠した。建安(けんあん)十一年七月だった。
柳城には袁煕(えんき)と袁尚(えんしょう)が隠れていたが、数千の兵をつれて遼東の方へ逃げ落ちた。
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易州から便りで、郭嘉の病がよくないことを知り、曹操は帰ることにした。
柳城の守りは田疇に任せた。
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無事に易州に帰ってきた曹操の姿をみた郭嘉は、その日に息をひきとった。
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袁煕、袁尚のふたりは、太守公孫康(こうそんこう)のもとに隠れていた。
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ある日。公孫康は袁煕と袁尚を酒宴に迎え、そこでふたりを斬った。
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曹操軍は易州から動かなかった。
半月ほどすると、公孫康の使者が袁煕と袁尚の首を献じた。
曹操に宛てた郭嘉の遺書には、動かなければ袁煕と袁尚の首はやってくる、と書かれており、曹操はそれに従っていたのだ。
曹操は全軍を率いて冀州(きしゅう)まで帰った。
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