内容
孫策(そんさく)のあとを継いだ孫権は、曹操より二十八、劉備より二十二も若かった。
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諸葛亮が隆中(りゅうちゅう)を出た年の六年前、建安(けんあん)七年の呉での話から始める。
曹操は孫権に使者を送った。孫権の長男を上洛させよ、という旨である。つまり人質を求めているのである。
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孫権は大会議を開いた。
曹操に従う派と従わない派に意見がわかれた。
「何を恐れて、曹操に媚びる必要がありましょう」周瑜(しゅうゆ)は続けた。
「何もせず、人質も送らず、曹操のうごきを見てから判断しても遅くはありません」
周瑜の意見に皆が同意した。
曹操と孫権は断絶状態に入った。
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建安八年十一月ごろ。呉の孫権は、荊州(けいしゅう)配下の江夏(こうか)の城にいる黄祖(こうそ)を攻めた。
船合戦では呉軍の優勢であった。
しかし陸戦に移り、呉軍大将凌操(りょうそう)が黄祖配下の甘寧(かんねい)の矢にあたり、命を落としたこともあり、呉軍は大敗した。
呉軍は本国へ引き揚げた。
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建安九年の冬。孫権の弟孫翊(そんよく)は、丹陽(たんよう)の太守となり、任地へ赴いた。
孫翊は短気で、相手を罵り、鞭打つ癖があった。
そのため、丹陽(たんよう)の都督(ととく)嬀覧(ぎらん)と郡丞(ぐんじょう)の戴員(たいいん)は、孫翊に恨みを抱いていた。
孫翊の大将辺洪(へんこう)を嬀覧は取り込んで仲間にした。
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ある日、山賊を討伐するという目的で、嬀覧は会議を開いた。孫翊も参加していた。
評議のあとは酒宴である。
酒宴が終わり、足元がふらつきながら孫翊は門外へ出たところを、待ち構えていた辺洪が斬った。
「逆賊め」嬀覧と戴員が現れ、辺洪を捕らえた。
「約束がちがう」辺洪は叫んでいるあいだに、首を斬られた。
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夫である孫翊(そんよく)の帰りを待つ妻の徐氏(じょし)のもとに、嬀覧(ぎらん)が現れた。
「あなたの夫である孫翊は部下の辺洪に斬られました。辺洪は嬀覧が捕らえ、首を斬って仇を討ってあげました」嬀覧は続けた。
「これからは何事も嬀覧にご相談するがよい」嬀覧は徐氏の腕をとらえて、部屋へ入ろうとした。
「人の目もあります。月末にでも」徐氏は言うと、嬀覧は帰って行った。
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徐氏は亡夫に仕えていた孫高(そんこう)と傅嬰(ふえい)という二人の武士を呼び、自身の思いを打ち明けた。
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月末の夜。嬀覧は徐氏のもとにやって来た。
嬀覧が少し酔ってきたとき、徐氏は合図をし、孫高と傅嬰は嬀覧を斬った。
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