自壊闘争(じかいとうそう) 孔明の巻

内容

建安(けんあん)六年九月。劉備は劉表(りゅうひょう)を頼って荊州(けいしゅう)へ向かった。
劉表は郭外三十里まで出迎え、劉備らを歓迎した。

建安七年の春。曹操は冀北(きほく)征伐に向かった。
袁紹(えんしょう)の息子である袁譚(えんたん)、袁煕(えんき)、袁尚(えんしょう)は、それぞれ曹操軍とぶつかり、敗北を味わった。

三男袁尚が先に冀州(きしゅう)城に逃げ帰って来た。

長男袁譚が冀州城外まで引き揚げてくると、袁紹の喪が発せられた。
袁尚からの使者逢紀(ほうき)が袁譚の陣に来て、袁尚は袁紹の遺言により君主になられた、と言った。
「遺書を見せろ」袁譚は言った。
「劉夫人がお持ちで、臣らの知るところではありません」逢紀は言った。
「兄弟の争いは、曹操を破ってからでも遅くありません」袁譚の側にいた郭図(かくと)は言った。
袁譚はふたたび黎陽(れいよう)の戦場へ向かったが、曹操軍に敗れるだけであった。

早馬が袁尚に密告した。袁譚は曹操に降伏して、共に冀州城を踏みつぶそうとしている、というのだ。
袁尚は三万余騎を率いて、みずから袁譚救援に向かった。
袁譚は袁尚と協力して、曹操軍に対峙した。
二男袁煕(えんき)、甥の高幹(こうかん)も袁譚救援にあたり、曹操軍を三方面から食い止めた。

年が明け、二月の末になると、曹操軍の猛攻撃が始まり、冀州城外三十里まで迫った。しかし城は堅城であるため、曹操軍の攻撃に揺るぎもしなかった。
曹操軍は急に全軍退却した。

冀州城は平時に戻った。すると君主問題が再燃した。
城外の守備に当っていた袁譚から、城にいる袁尚へ酒宴の迎いがきた。
「命を奪う謀略があると聞きますのでご注意を」袁尚の側にいた審配(しんはい)は言った。
袁尚が五万の兵を率いて城門を出たことを知った袁譚は、酒宴を取り止め、戦いを挑んだ。
袁譚軍は袁尚軍に敗れて、平原(へいげん)へ逃げたが、兵力を増やした袁尚軍に包囲された。
「曹操に降伏して冀州を攻めてもらえば、袁尚はあわてて戻ります。そこを追い討ちすればよいのです」郭図は袁譚にすすめた。
使者には辛毘(しんび)が選ばれた。

曹操軍は荊州を攻めるため河南(かなん)の西平(せいへい)まで来ていた。
辛毘に会った曹操は、次の日、全軍を冀州へ向かわせた。

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