改元(かいげん) 出師の巻

内容

延康(えんこう)元年六月、魏(ぎ)王曹丕(そうひ)は先祖の墓を祭るため、亡父曹操(そうそう)の郷里である沛(はい)の譙県(しょうけん)を訪れていた。

そこで夏侯惇(かこうじゅん)危篤の知らせを受ける。

曹丕は急いで帰国するが、すでに夏侯惇は亡くなっていた。

八月が過ぎると、ふしぎな吉事が続いて起こった。麒麟があらわれたり、鳳凰が舞い降りたというのだ。これはあくまでも噂である。

魏の譜代(ふだい)の者たちは、この噂を「魏が漢(かん)に代って天下を治めよ」という啓示だと言い出し、連署の決議文をたずさえ、賈詡(かく)・華歆(かきん)・王朗(おうろう)の三名を説いてまわる。

王朗・華歆ら魏臣は御位を魏王に禅譲するように、帝に迫る。この時、献帝は九歳で、董卓(とうたく)に擁立され、現在三十九歳になっていた。

帝は即座に承諾しない。

華歆らはその後も参内して帝に迫るが、帝は頑として退ける。

魏の者たちは金や栄誉を餌に朝廟の内官を誘惑。

曹休(そうきゅう)・曹洪(そうこう)のふたりが剣を持ったまま殿階へ上がり、符宝郎(ふほうろう)祖弼(そひつ)が守護する玉璽(ぎょくじ)を渡せと、剣を突きつけ祖弼に迫る。

祖弼はひるむことなく断ると、曹休・曹洪のふたりは祖弼の首を斬る。

血涙をにじませ、帝は曹丕に禅譲することを決める。

詔書を前にして、すぐに承諾しそうな曹丕を、司馬懿(しばい)は再三謙辞してから受けるのが礼節だと助言。

十月庚午(かのえうま)の日、寅の刻、築かれた受禅台(じゅぜんだい)で禅譲は行われた。

献帝は山陽(さんよう)公に封じられ、わずかな旧臣を率いて田舎へ落ちて行く。

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