荊州往来(けいしゅうおうらい) 望蜀の巻

内容

柴桑(さいそう)で、傷療養をしている周瑜(しゅうゆ)のもとに、南軍の太守に奉ずという詔が降りた。
周瑜は孫権(そんけん)に書簡を送り、指示を仰いだ。

荊州(けいしゅう)に、孫権の使いとして魯粛(ろしゅく)がやってきた。
魯粛は荊州譲渡について劉備(りゅうび)に問うた。
「蜀(しょく)の劉璋(りゅうしょう)は、血においては兄弟も同じ。蜀へ攻め入れば、世人は不徳を罵(ののし)るであろう。さりとて、もし荊州を呉(ご)侯へ返せば、身を置く国もありますまい」劉備は嘆き悲しんだ。

魯粛は柴桑(さいそう)にいる周瑜を訪ね、劉備との荊州譲渡の話しをした。
周瑜は、その回答を孫権にすると首を斬られる、と忠告した。

魯粛は周瑜から授かった策をもって、荊州を再び訪れていた。
呉の大軍が劉備に代わって蜀を攻め入るので、荊州を通過することと、軍需兵糧の補給を魯粛は申し出た。
劉備は協力を誓った。

魯粛は、柴桑へ向かい周瑜に、そして南徐(なんじょ)に戻り孫権に報告した。

周瑜は総勢五万の水陸軍を編成し、自身は二万五千を率いて柴桑を船で出た。

夏口(かこう)に周瑜は着くと、荊州からは糜竺(びじく)のみが迎えに出た。
周瑜は江上一帯に兵船を残し、荊州へ向かった。

「門を開けよ」周瑜は城門の前で呼んだ。
「軍師はそれがしをここの番につけ置かれた。よそをさがし給え」櫓の上から趙雲(ちょううん)は言った。
趙雲はいまにも槍を投げ落とそうとする姿勢をしたので、周瑜は驚いて、引き返した。

物見からの報告が周瑜に届いた。関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・黄忠(こうちゅう)・魏延(ぎえん)がこちらに攻めてきており、民どもは周瑜を生け捕りにしろ、と叫んでいるという。
周瑜は血を吐き、馬の背から落ちた。

孫権の弟孫瑜(そんゆ)は援軍を引いて到着し、周瑜のもとに駆けつけた。
周瑜は、荊州を取り、劉備・諸葛亮(しょかつりょう)の首を見なければ、孫権には会えないと訴えた。
しかし孫瑜は周瑜を夏口の船場まで退かせることにした。

周瑜を乗せた病輿(びょうよ)が巴丘(はきゅう)まで来たとき、関羽の養子関平(かんぺい)と劉封(りゅうほう)は江頭の道をふさいでいた。
道を変え、夏口にある船を別の江岸へ移し、周瑜を船に乗せた。
そこへ荊州の軍使とする者が周瑜へ諸葛亮の一書を渡して去った。
周瑜は読み進めていくうちに、顔色が壁土のようになった。筆をとり、必死の形相でなにかを懸命に書いた。
「無念。天は周瑜に命を与え、諸葛亮にも命を与えたのか」周瑜は眼を閉じ、終わりを告げた。
建安(けんあん)十五年十二月三日。周瑜三十六歳であった。

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