内容
曹操(そうそう)が誇る虎衛(こえい)軍五万の教練を見学していた蜀の使者張松(ちょうしょう)の態度は、いかにもあざ笑っている風であった。
「もし曹操が西蜀(せいしょく)に、この軍をもって攻めた時、蜀の者はみな逃げ隠れる術でも自慢するのか」曹操は張松に問うた。
「丞相(じょうしょう)は、むかし濮陽(ぼくよう)で呂布(りょふ)と、宛城(えんじょう)で張繍(ちょうしゅう)と、赤壁で周瑜(しゅうゆ)と戦って敗走され、華容(かよう)では関羽に命を助けられ、渭水(いすい)潼関(どうかん)の合戦では、髯(ひげ)を切り、戦袍(ひたたれ)を捨てて敗走されました。このような丞相が指揮する兵ですから、これを破るのに、なんの手間暇が要りましょうや」張松は言った。
曹操は激怒し、首を斬れと命じた。
楊修(ようしゅう)、そして荀彧(じゅんいく)までが曹操を諫めたため、曹操は百叩きの刑を命じた。
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次の日。腫れあがった顔の張松は、許都を去り、蜀には戻らず、道をかえて荊州(けいしゅう)の方へ向かった。
郢州(えいしゅう)の近くまで来ると、趙雲(ちょううん)が張松を出迎えていた。
荊州城市へ入ると、劉備(りゅうび)、諸葛亮(しょかつりょう)、龐統(ほうとう)が張松を出迎えた。
三日間、張松はこの城中でもてなされて、不愉快と感じることは一度もなかった。
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四日目。張松は別れを告げたので、劉備は十里亭まで送った。
ここで、ささやかな別宴をひらき、共に前途の無事を祈った。
張松は馬の背の荷物から一個の筥(はこ)を取り出し、蜀の地図を劉備の前で広げた。
この地図を張松は劉備に献上し、益州へ帰った。
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張松が首都成都(せいと)へ近づいた頃、孟達(もうたつ)と法正(ほうせい)が迎えにでていた。
曹操はまずい、と張松は言い、他に誰を迎えたらよいかとふたりに問うた。
三人の考えは劉備で一致した。
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次の日。張松は劉璋(りゅうしょう)に謁見し、曹操は蜀へ攻め入る気配あり、と告げた。
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