中原を指して(ちゅうげんをさして) 三国志 五丈原の巻

・第一次北伐

・蜀軍、夏侯楙を捕らえる

あらすじ

蜀軍は沔陽(べんよう)まで進み、対して魏は長安に布陣し大本営をおく。

鳳鳴山(ほうめいざん)の下で、蜀の先鋒趙雲と魏の韓徳(かんとく)の軍がぶつかり、韓徳は大敗して長安へ逃げる。

先鋒の副将鄧芝(とうし)は諸葛亮にあてて、序戦の吉報を急送する。

魏の都督夏侯楙(かこうも)は逃げ戻った韓徳とともに大軍を率いて、鳳鳴山へ向かう。

翌日、韓徳は大きな斧を振り、趙雲にぶつかるが、趙雲の槍にやられる。
四日間の合戦で、魏の夏侯楙の軍は趙雲の軍に打ち破れ、二十里ほど後退する。

ふたたび魏軍が攻めてきたため、趙雲は鄧芝の諫めも聞かず、魏軍に向かう。

趙雲は魏兵を倒しながら前進するが、日が暮れるころには、魏軍に囲まれていた。

趙雲は疲れた馬に鞭を打って走り逃げると、張苞(ちょうほう)と関興(かんこう)が助けに来た。

張苞と関興は魏軍に突き進み、趙雲、鄧芝もあとに続く。

夏侯楙は南安の城中へ逃げ帰り、守りを固める。

趙雲、関興、鄧芝、張苞は、昼夜十数日、城を囲んで攻めたが、守りは固い。

そこに諸葛亮が着陣する。

・・・

南安の北に位置する安定城を守る魏の崔諒(さいりょう)のもとに、夏侯楙の使者で裴緒(はいしょ)と名乗る者が来た。
兵を挙げて、諸葛亮のうしろを襲撃せよというものだ。

二日の後、襲撃催促の使者が来たため、崔諒は慌てて城を出た。

夜になり、崔諒軍は蜀の関興軍の攻めを受け、安定城へ引き返す。
しかし安定城は蜀の旗がなびき、城頭には蜀の魏延がいた。

崔諒は天水郡へ逃げ向かうと、森林から四輪車に乗った諸葛亮が現れたのを見て、崔諒は諸葛亮に降伏する。
諸葛亮は崔諒に、南安の太守である楊陵(ようりょう)を説き伏せ、夏侯楙(かこうも)を生け捕るようにと説く。

諸葛亮の密命を受けた崔諒は、楊陵と夏侯楙のもとへ出向く。

崔諒は諸葛亮の元に戻り、ともに南安の城へ入り攻めるよう説得するが、諸葛亮は拒否する。
諸葛亮の代わりに関興(かんこう)と張苞(ちょうほう)のふたりとし、合図があれば、諸葛亮自身も城へ駆け入ることになる。

崔諒はしかたがなく受け入れ、日暮れとなり、関興、張苞とともに南安城へ立つ。

門は開き、なかに入った関興と張苞は楊陵と崔諒を斬る。

南安城にいた夏侯楙は南の門から逃げ落ちたが、その先には蜀軍王平が待ち構えており、夏侯楙は捕らえられる。

つぎは天水郡の太守馬遵(ばじゅん)である。蜀軍は向かった。

メモ

●七旬(しちじゅん)
七十歳。

●金枝玉葉(きんしぎょくよう)
天子の一族や子孫のたとえ。

●莞爾(かんじ)
喜んでにっこり笑う様子。

●駙馬(ふば)
駙馬都尉のこと。三国時代は、多くの場合、公主(皇帝の娘)を娶ったものが就く。

●旌旗(せいき)
はた。

●叢(そう)
くさむら。

●洪福(こうふく)
おおきなさいわい。

●油幕(ゆばく)
雨露をしのぐために桐油を引いた幕。

●如才(じょさい)
手抜かり。

関連記事

次の章「美丈夫姜維(びじょうふきょうい)」へ進む

前の章「出師の表(すいしのひょう)」へ進む

トップページへ進む