不倶戴天(ふぐたいてん) 望蜀の巻

内容

曹操(そうそう)は、荊州(けいしゅう)にいる劉備(りゅうび)が蜀(しょく)を攻め入りそうだとの報告を受けた。
丞相府(じょうしょうふ)の陳群(ちんぐん)の献策により、曹操は三十万の大軍を呉(ご)へ向けた。
合淝城(がっぴじょう)にいる張遼(ちょうりょう)には、先陣として呉を攻撃するよう命じた。

呉では、劉備の協力を得るため、魯粛(ろしゅく)の書簡を持った使いが荊州(けいしゅう)へ急いだ。

諸葛亮(しょかつりょう)は呉の使者へ、魏(ぎ)が攻めてきたら直ちに撃退すると言った。
諸葛亮は劉備へ、西涼(せいりょう)州の馬超(ばちょう)密使を送るようにうながした。

西涼州の馬超のもとに、許都(きょと)から逃げ落ちてきた従兄弟(いとこ)の馬岱(ばたい)が戻り、父馬騰(ばとう)が許都で命を奪われたことを知った。
劉備からの書簡が馬超に届いた。「君、涼州より攻め上れ、劉備また北上せん」とあった。

つぎの日、父馬騰と親友だった韓遂(かんすい)から迎えがあり、馬超は向かった。
韓遂は馬超を閑室へ通し、曹操からの書面を馬超に見せた。「馬超を生け捕って差し出せば、西涼侯にしてやる」とあった。
馬超は父の仇を討つ決意をし、韓遂は馬超軍に身を投じた。

数万の西涼軍は潼関(どうかん)へ攻めかかった。
長安の守将鍾繇(しょうよう)は、西涼軍の先鋒馬岱に蹴ちらされて、長安(ちょうあん)城へ逃げた。

馬超は長安城の包囲をやめ、陣を数十里退いた。
三日、四日と経つと、西涼軍が攻めてこないことに慣れて、長安城の門を開き、城外との往来が始まった。
そのようなときに、西涼軍が攻めてきたので、あわてて城門を閉めた。

その日の日没ごろ、城西の山から火があがった。
人の往来があるときに、城内に入り込んだ龐徳(ほうとく)が企てたものであった。
城門は開かれ、馬超、韓遂の大軍は城内に流れこみ、長安城を占領した。

鍾繇は東門から逃げ出し、潼関に拠って、許都に早馬を出した。
曹操は呉へ出兵を見合わせ、曹洪(そうこう)と徐晃(じょこう)を呼び、兵一万をさずけて潼関へ向かわせた。

潼関に着いた曹洪と徐晃は、鍾繇に代り、潼関を堅く守り、曹操を待った。
西涼の兵は力攻めをやめ、壕に現れては曹洪と徐晃をののしった。
激怒した曹洪は兵を出し、西涼軍を追いまくった。徐晃もしかたなく、あとに続いた。

馬岱の部隊が現れ、うしろには龐徳の部隊が現れ、曹洪と徐晃の退路を断った。
馬超と韓遂は潼関を攻め、留守を守っていた鍾繇(しょうよう)は逃げ出した。
曹洪と徐晃は潼関を捨て、走り逃げた。

許都へ逃げ落ちる途中、曹洪と徐晃は、許都を発った曹操本軍の先鋒に出会った。
曹操は曹洪と徐晃を呼び、敗戦の原因を糾問した。「十日の間は、守備して戦うなと命じておいたのに、なぜ動いたのだ」
曹洪を止めたがきかなかったと徐晃は言ったので、曹操は曹洪を斬ろうとした。
徐晃は曹洪のために命乞いをしたため、曹洪の命は助かった。

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