亡流(ぼうりゅう) 赤壁の巻

内容

曹仁(そうじん)・曹洪(そうこう)・許褚(きょちょ)が率いる曹操(そうそう)軍の先鋒隊は、諸葛亮(しょかつりょう)の策により、大敗北を喫した。

劉備(りゅうび)らは、対岸へ渡り、樊城(はんじょう)へ入った。

宛城(えんじょう)にいた曹操は先鋒隊大敗北の知らせを受けた。
曹操は劉曄(りゅうよう)の勧めにより、徐庶(じょしょ)を使いとし、樊城へ送った。

「それがしは和睦のために使わされましたが、曹操の本心は異なります。民を戦いに巻き込んだのは劉備であると罪を負わせるためです」徐庶は劉備に言って、すぐに曹操のもとに戻った。

劉備は諸葛亮のすすめにより襄陽(じょうよう)へ逃げることにした。
数万の百姓たちも劉備についていく。
関羽(かんう)・糜竺(びじく)・簡雍(かんよう)は、数万の百姓たちを船に乗せ、対岸へ渡した。
そこへ曹操軍五万の兵がやってきた。
関羽は逃げおくれた百姓たちを助け、後から渡ってきた。
劉備は皆をともない、襄陽(じょうよう)へ急いだ。

襄陽の城には、荊州(けいしゅう)から移ってきた国主劉琮(りゅうそう)とその母蔡(さい)夫人が移住していた。
劉備は、門を開けるように城門の下で大声をあげたが返事はなく、かわりに矢が雨の如く降ってきた。
その様子を城中から見ていた大将魏延(ぎえん)は憤慨し、城門を開けたので、蔡瑁(さいぼう)配下の張允(ちょういん)と文聘(ぶんぺい)は魏延を攻めた。

城門で争っている様子を見た諸葛亮は、江陵(こうりょう)へ向かうことを勧めた。

襄陽の城内では、魏延の部下のほとんどが討たれ、魏延が城外へ脱出したときには、劉備はすでに遠くへ去っていた。
そこで魏延は長沙(ちょうさ)の太守韓玄(かんげん)に身を寄せることにした。

劉備は数万の百姓をつれて江陵へ向かっていたが、一日に十里も進めなかった。
「百姓・老幼の足手まといを振り捨てて、江陵へ急ぎましょう」諸葛亮は言った。
「民と共に死ぬなら死ぬばかりである」劉備は顔を横に振って言った。
諸葛亮は、関羽(かんう)と孫乾(そんけん)に兵五百を与え、江夏(こうか)の劉琦(りゅうき)のもとへ急ぎ、援軍の急派をうながすように、と指示をした。

曹操は宛城(えんじょう)から樊城へ移り、襄陽にいる劉琮(りゅうそう)への対面を書で申し入れた。
幼年の劉琮は曹操との対面を恐れたため、名代として蔡瑁、張允、文聘の三人が赴き、降伏の礼を執った。

次の日。蔡夫人と劉琮は曹操を出迎え、故劉表(りゅうひょう)の印綬と兵符を曹操に渡した。
曹操は劉琮を青州(せいしゅう)の刺史(しし)に任命した。
「この国にいたい」劉琮は哀訴したが、曹操は突っ放した。

数日後。劉琮と母の蔡夫人は青州へ向かった。
曹操は于禁(うきん)に五百余騎を与え、後を追わせた。
于禁の部隊は劉琮と蔡夫人、すべての随身の者を斬った。

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