あらすじ
一
油江口に戻った孫乾は「周瑜がこちらに伺うそうです」と報告。そのとおり、周瑜と魯粛が劉備を訪れた。
酒宴の席で、呉軍が、曹仁が守る南郡を奪えなければ、劉備が奪ってもよいことに決まった。
二
周瑜は南郡の城へ進軍した。
曹仁は曹操の言いつけどおり、防衛に徹していた。
しかし、部下の牛金が攻撃を主張し、呉軍を奇襲した。
牛金の軍は呉の丁奉の軍に取り囲まれてしまった。
曹仁は牛金の救出に向かい、呉の大将たちを蹴散らした。
三
曹仁が守る南郡の城と曹洪が守る夷陵の城は掎角の形勢を作っていたため、甘寧は江を渡って夷陵の城を、周瑜は南郡の城を攻撃することになった。
甘寧は江を渡て夷陵の城を攻撃。
南郡の城の櫓からその状況を見た曹仁は、曹純と牛金を救援に向かわせた。
曹純は城外から、城内の曹洪と連絡をとり、作戦を立てた。
甘寧の軍の攻撃に、曹洪や城兵は城を捨てて逃げ出した。
甘寧の軍は、空となった城内へなだれ込み占拠した。
その時、曹純と牛金の軍が城を包囲し、逃げた曹洪も戻ってきて、甘寧の軍を城の中に閉じ込めた。
甘寧を救うため、南郡の城攻めには凌統と兵一万を残し、周瑜は夷陵の城へ向かった。
四
途中、呂蒙の進言により、夷陵の南にある狭く険しい道に柴や薪を置いてさえぎらせ、兵五百を伏せさせた。
夷陵の城へ近づくと、城は曹洪・曹純・牛金の軍に取り囲まれている。
呉の周泰は一騎で敵陣のなかを駆け抜け、夷陵の城へ駆け込んだ。そして、作戦を伝えた。
次の日、周瑜の大軍が夷陵の城を囲む曹洪・曹純・牛金の軍を蹴散らした。
敗走する曹洪・曹純・牛金らは、呉軍の追撃を避けるため山越えを選んだ。狭く険しい道に出ると、柴や薪に足をとられ、多くの兵が斬られた。
呉軍は南郡の城外十里までに迫った。
南郡の城に逃げた曹洪・曹純・牛金と曹仁は、丞相のことばを守って城を出なければよかったと、後悔していた。
その時、曹仁は曹操が残していった一巻を思い出し、開けた。
五
南郡の城内では逃げ支度をしていることを知った周瑜は、南郡の城へ攻撃を開始した。
南郡の城兵が応戦する中、曹洪が躍り出た。呉の韓当があたり、曹洪を退けた。
次に曹仁が踊り出たため、呉の周泰があたった。そして、曹仁を退けた。
城兵は総崩れとなり、曹仁・曹洪・城兵たちはみな、城外の西北の方へ逃げて行った。
周瑜は城門のなかへ駆け込んだ。
城門の上から様子を見守っていた陳矯が合図をだした。
すると、垣根と壁の上から弩弓・石鉄砲が一斉に降り注いだ。
周瑜はかろうじて門外へ逃げ出たが、その時、矢が左の肩を射抜き、馬から転げ落ちた。
呉の丁奉・徐盛らが、周瑜を担いで呉の陣中へ逃げ帰った。
六
呉軍は大敗し、南郡の城から遠くへ退却した。
周瑜を射た矢の先には毒が塗られており、骨のかなに鏃が残っていた。
軍医はノミと木槌で骨のなかに埋まっていた矢先を取り除いた。
数日後、周瑜は回復したが、軍医は「矢の先に毒が塗ってあったため、激怒すると、病熱を発しますよ」と注意した。
程普は軍医の注意を守って、周瑜を中軍から出させなかった。また。陣門を閉じて、戦うなと命じた。
南郡の城外へ逃げていた曹仁・曹洪らは、城へ戻った。
牛金や曹仁の軍が呉の陣営に迫り、悪口を吐き散らした。
その声を耳にした周瑜は病床から身を起こし、鎧を着け数百騎を率いて、陣外へ出た。
七
周瑜を見た曹仁は兵らに「罵倒せよ」と命じ、自身もあざけりからかった。
周瑜の顔色は赤黒くなり、血を吐いて、馬の背から落ちた。
この瞬間、曹仁は一斉攻撃を開始した。
呉軍は周瑜の身を拾って、陣門へ逃げ帰った。
つぎの日の夕方、呉の一部隊が南郡の城へ迫ってきたため、曹仁の部下が捕らえて尋問した。
彼らは言った。「周瑜が命を落としました。呉に勝ち目はありませんので、降参しに参りました。我々をお用いくださるなら、呉の陣へ案内します」
真夜中になり、曹仁らは呉の陣を夜襲した。
しかし、陣中に人影はなかった。
その時、東門から韓当・蒋欽、西門から周泰・潘璋、南門からは徐盛・丁奉、北の柵門から陳武・呂蒙が攻め入り、陣内にいる曹仁らは逃げ場がなく追い詰められた。
曹仁が率いた兵の大半は斬られ、曹仁・曹純・曹洪らは南郡の城へ走るが、呉の甘寧が道をさえぎっていたため、襄陽方面へ向かった。
曹仁は周瑜の策にはまったのである。
周瑜は意気盛んに程普を連れて、曹仁のいない南郡の城を獲りに向かうと、南郡の城の高櫓の上にひとりの武将が立っているのを見た。
八
周瑜が「何者か」と下から問うと、その者は「趙雲子龍、孔明の命により、この城を占領した。周瑜都督、引き返しなさい」と答えた。
周瑜のもとに早馬がきた。荊州の城は張飛が、襄陽の城は関羽が占拠しているというのだ。
周瑜は諸葛亮に出し抜かれたのだ。
経緯はこうである。
諸葛亮は南郡の城をとるや、魏の長史陳矯から曹仁の兵符を奪い、荊州の城へ南郡の救援を要請。空になった荊州の城を張飛が占領。次に襄陽の城へ向かい、南郡の救援を要請。その後、関羽が占領したのだ。
襄陽の城を守る夏侯惇も曹仁の兵符を見れば、疑う余地もなかったのである。
一部始終を知った周瑜は床に倒れた。傷口が破れたのだ。
ある日、魯粛が周瑜を見舞うと、周瑜は起きており、劉備や諸葛亮と戦い、南郡を手に入れると告げた。
九
魯粛は反対し、劉備に道理を説くため、会いに向かった。
荊州の城で迎えたのは諸葛亮であった。
魯粛は「曹操を破った戦果として荊州は呉に属していいものと考える」と責め立てた。
諸葛亮は笑ったのちに言った。「荊州は荊州の主権のものである。荊州の主、故劉表の嫡子劉琦のものである。劉琦とわが劉皇叔とは叔父と甥の間柄。それを助けることに何の不道理がありましょうや」
「劉琦は江夏の城におられるはず。この荊州の主としてはおられまい」
諸葛亮は小声で命じると、後ろの屏風が開き、劉琦が左右の手を侍臣にとられながら挨拶をし、奥へ戻った。
諸葛亮は言った。「琦君があのご病弱ゆえ、もしお亡くなりになるようなご不幸があれば、また別ですが」
「では、もし劉琦にご不幸が起これば、この荊州は呉へ返されよ」と魯粛は言い、諸葛亮は同意した。
魯粛は周瑜に報告した。「劉琦の命は長いことありません」
そこへ孫権から早馬の知らせがきた。荊州を捨てて、柴桑さいそうまで引き揚げろとの軍令であった。