内容
「荊州(けいしゅう)を借りれば、軍需財源、ずべてが満たされます」諸葛亮(しょかつりょう)は劉備(りゅうび)に言った。
「わしが今日あるは、劉表(りゅうひょう)の恩である。義に欠けるようなことはできない」劉備は言った。
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夏侯惇(かこうじゅん)は命からがら都へ戻り、相府の階下に罪人のようにひざまずいた。
曹操(そうそう)は夏侯惇を階に上がることをゆるした。
夏侯惇は戦いの一部始終を報告した。
曹操は夏侯惇をとがめなかった。
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建安(けんあん)十三年七月下旬。曹操は八十余万の大軍をもって、明日に都を発つと号令したため、孔融(こうゆう)は曹操を諫めた。
曹操は孔融を一喝し、退けた。
府門をでるとき、孔融は曹操に対する不満を口にした。
それを小者が耳にし、主人である郄慮(げきりょ)に伝えた。郄慮と孔融は犬猿の仲である。
郄慮は曹操に孔融の告げ口をした。
曹操は廷尉(ていい)に命じて、孔融とその一族の首を斬った。
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曹操は大軍を率いて南下を開始した。
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劉表の病は重く、遺言を書いて、あとのことを劉備に頼んだ。遺言の内容は、荊州の主に劉備が立たないのならば、嫡子劉琦(りゅうき)を主に立ててほしい、というものであった。
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劉琦は父劉表の危篤を聞いて、江夏(こうか)から荊州へ帰ってきたが、内門の扉は閉じられ、中に入ることはできなかった。
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建安十三年八月。劉表は亡くなった。
蔡(さい)夫人と蔡瑁(さいぼう)は、偽の遺言書を作って、荊州の主は弟劉琮(りゅうそう)であると発した。
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蔡夫人は、軍政の大本営を襄陽(じょうよう)城に移し、曹操軍と戦うか否か、群臣たちと日々議論していた。
しかし荊州軍が曹操軍に勝てる強みはどこにもなく、和睦を願う書をたずさえて、曹操軍へ使者を派遣した。
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